テクノロジーそのものではなく、「誰が知るのか」を問う
ショシャナ・ズボフの仕事を「巨大IT企業による個人データ収集への批判」と要約すると、その射程を狭めてしまう。彼女が1980年代から一貫して追ってきたのは、情報技術が社会に導入されたとき、**誰が何を知ることができ、その知識にもとづいて誰が誰を動かすのか**という問題である。
1988年の『In the Age of the Smart Machine』、ジェームズ・マックスミンとの共著『The Support Economy』(2002年)、そして『The Age of Surveillance Capitalism』(2019年)は、対象も語調も大きく異なる。しかし三冊を貫くのは、情報技術による「知識の再配分」と、それによって変化する権力関係への関心だ。『Smart Machine』がコンピュータ化された職場を扱い、『Surveillance Capitalism』がGoogleなどのプラットフォーム企業を扱うのは、テーマが変わったというより、同じ問いの舞台が企業内部から社会全体へ拡大したと読むほうが理解しやすい。
『Smart Machine』――コンピュータは労働者を不要にするのか
『In the Age of the Smart Machine』の重要な点は、情報技術を単なる自動化装置として扱わなかったことである。ズボフは、機械が人間の仕事を代替する「automate」と、活動そのものを情報として可視化する「informate」を区別した。コンピュータは仕事を自動化すると同時に、生産工程や組織活動について、それまで存在しなかった大量の情報を生み出す。
ここから二つの可能性が生じる。情報を労働者にも開けば、現場の人間が工程を理解し、判断し、学習する余地が広がる。逆に管理者だけが情報を所有すれば、同じ技術は監視と統制を強化する道具になる。
つまりズボフにとって、技術の効果は技術だけでは決まらない。重要なのは、**新しく生まれた知識へのアクセス権を組織がどう配分するか**である。当時から彼女はコンピュータ化が労働者の監視を強める可能性にも注目していた。
この視点は後年の監視資本主義論の原型でもある。ただし、後期ズボフの議論を1988年の著作へ逆投影するべきではない。『Smart Machine』では情報技術そのものへの評価は両義的であり、適切な組織設計によって人間の能力を高める可能性も強く残されていた。
『The Support Economy』――企業と個人の関係へ
2002年の『The Support Economy』では、分析対象が職場から消費社会と企業制度へ移る。同書でズボフとマックスミンが問題にしたのは、大量生産時代につくられた管理型企業と、より個別的な生活や選択を求める人々との不一致だった。彼らは、従来型の企業制度が効率的な大量生産には適していても、個人化した需要を十分に支えられなくなったと論じた。
この著作には、後のズボフと比べればかなり楽観的な側面がある。ネットワーク技術を使い、企業が個人を管理するのではなく、その生活を支援する方向へ資本主義そのものを再編できるという展望が存在するからだ。
したがってズボフを「反テクノロジーの思想家」とみなすのは正確ではない。むしろ、デジタル技術が個人の自律性を支援する可能性を認めていたからこそ、その後に現実化したビジネスモデルを裏切りとして捉える構図が生まれる。
「監視資本主義」という概念が変えたもの
その転換を代表するのが、2015年の論文「Big Other」と2019年の『The Age of Surveillance Capitalism』である。2015年の論文では、Googleを主要な事例として、ネットワーク空間に新しい「蓄積の論理」が成立したという議論が示された。
『The Age of Surveillance Capitalism』で中心になるのは、企業がサービス提供に必要な範囲を超えて人間の行動データを取得し、それを将来の行動を予測するための資源へ変えるという構図である。ズボフはこうした余剰的データを「behavioral surplus」と呼び、それを機械的分析によって予測へ変換し、市場で利用するモデルを監視資本主義の中心に置く。
重要なのは、問題を「プライバシーが侵害される」という一点に還元していないことだ。ズボフがより危険視するのは、企業が人間について一方的に学習しながら、人間の側からは企業が何を知り、どのような推論をしているか見えなくなる非対称性である。
『Smart Machine』で問われていた「誰が知るのか」という問題が、ここでは巨大な規模に拡張される。職場の管理者と労働者のあいだにあった知識格差が、プラットフォーム企業と社会全体のあいだに現れるのである。
予測から「行動の形成」へ進むとき
ズボフの議論が最も強い警告となるのは、企業が行動を予測するだけでなく、予測を確実にするため人間の行動そのものに介入する段階である。広告の表示、推薦、通知、選択肢の配置、位置情報を利用した働きかけなどによって、予測対象だった人間が次第に行動形成の対象にもなるという。
彼女は、この新しい権力を単純に全体主義国家の再来とは考えず、「instrumentarian power」という独自の概念で説明する。目的は思想的服従そのものではなく、計算可能で予測可能な行動を生み出すことにあるという区別だ。『Big Other』でも、抽出・商品化・統制によって新しい権力構造が形成されると論じられていた。
この議論の強みは、無料サービスと広告という表面的な交換だけを見ず、その背後に存在するデータ取得、機械学習、予測市場を一つの政治経済的システムとして結びつけたことである。「監視資本主義」という言葉が広く使われるようになったのも、分散して見えていた現象に名称を与えた力が大きい。
方法の強みと弱み――概念によって巨大な対象をつかむ
ズボフの研究方法は、狭い意味での計量経済学とはかなり異なる。初期の『Smart Machine』ではコンピュータ化された職場について長期的な現場研究を行い、仕事と権力の変化を観察した。一方『Surveillance Capitalism』では、企業の公開資料、特許、経営者の発言、報道など大量の資料を組み合わせ、そこから新しい制度の論理を抽出している。ジュリー・E・コーエンも、この著作が多様な企業資料などを集め、新しいビジネスモデルと抽出・権力の形態を描いた点を高く評価している。
これはズボフの最大の長所であると同時に、批判される理由でもある。彼女は個々の企業行動を細かく分類するだけではなく、「監視資本主義」という巨大な概念によって束ねる。そのため説明力は高いが、異質な事例を一つの原理で説明しすぎているのではないか、という疑問が残る。
最大の論争――本当に「新しい資本主義」なのか
代表的な批判の一つは、エフゲニー・モロゾフによるものである。彼はズボフが「監視」の新しさを強調するあまり、広告、企業集中、市場支配、資本主義そのものの長い歴史を十分に分析していないと批判した。問題はGoogleが突然異質な経済制度を発明したことなのか、それとも既存の資本主義が新しい技術を得て従来からの利益追求を強化したことなのか、という争点である。
法学からも別の問題が指摘される。監視企業の力は技術だけから自然発生したわけではない。どのデータを所有できるのか、どの契約を有効とするのか、競争法をどこまで執行するのかといった法制度そのものが企業権力を形成してきた。ズボフの説明は規制の失敗を扱っているものの、法が市場そのものを構築する役割を過小評価しているという批判がある。
さらに慎重に読むべきなのが「行動操作」の強さである。企業が膨大なデータを集め、人々の選択へ介入しようとしていることと、企業が実際に人間行動を高精度で支配できることは同じではない。予測技術の能力を過大評価すれば、逆説的に巨大IT企業自身が語る「AIは人間を正確に理解できる」という宣伝を受け入れてしまう危険もある。
したがってズボフの議論の核心は、「企業はすでに人間を完全に操作できる」という実証命題として読むより、**予測と介入を利益源にしようとする制度が成立したとき、民主社会はどのような権力を許すことになるのか**という政治的問いとして読むほうが強い。
代表著作は三冊をつないで読む
ズボフを理解するなら、『The Age of Surveillance Capitalism』だけを孤立して読むより、『In the Age of the Smart Machine』から遡って読む価値がある。
『Smart Machine』では、情報技術によって新しい知識が生まれたとき、それを働く人々と共有するのか、管理のために独占するのかが問われる。『The Support Economy』では、ネットワーク技術によって企業中心の経済を個人中心へ転換できる可能性が模索される。そして『Surveillance Capitalism』では、実際に形成されたデジタル経済が、個人を支援するより個人について知ることを収益化する方向へ進んだと診断される。
この流れを踏まえると、ズボフの思想は単純な「楽観から悲観への転向」ではない。一貫しているのは、デジタル技術には複数の制度的可能性があり、その選択を技術的必然として扱ってはいけないという立場である。彼女自身も監視資本主義とデジタル技術を同一視せず、別のデジタル社会は可能だと主張している。
ズボフの概念をそのまま採用する必要はない。「監視資本主義」が本当に資本主義の新段階なのか、既存の広告産業や独占資本主義との連続性を過小評価していないか、予測技術の能力を誇張していないかという批判は重要である。
それでも彼女が残した問いは消えない。デジタル社会で重要なのは、データが存在することだけではない。**誰が人々について知る権利を持ち、その知識から利益を得て、その知識を使って他者の行動環境を設計できるのか。**
プライバシー保護という言葉だけでは捉えきれないこの「知識と権力の非対称性」を可視化したことこそ、ズボフの仕事の最も持続的な意義である。