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サピエンス全史と銃・病原菌・鉄

人類社会の大規模な差異を、社会的虚構と地理的条件という異なる軸から比べる。

なぜ人類社会には大きな格差が生まれたのか

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』と、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』は、ともに人類史を巨大なスケールで描く本として読まれてきた。しかし、二冊を単に「人類の歴史を説明した本」とまとめると、重要な違いが見えなくなる。

両者が共有しているのは、現在の世界を当然のものとして受け取らず、「なぜ人間社会はこのような形になったのか」と問い直す姿勢である。ただし、その問いの置き方が異なる。

『銃・病原菌・鉄』が中心的に取り組むのは、なぜユーラシアの一部の社会が、近代に他地域を征服・支配できるほどの技術力や政治的組織力を獲得したのかという問題である。それに対し『サピエンス全史』は、なぜホモ・サピエンスが地球規模の支配的存在となり、国家、宗教、貨幣、市場、帝国といった巨大な協力体系を形成できたのかを問う。

したがって、二冊の違いは「歴史について何を知りたいのか」という問いそのものにある。ダイアモンドは社会間の発展格差を説明しようとし、ハラリは人類そのものの異例の成功と、その成功が何を意味するのかを考えようとする。

共通するのは「民族の能力」で歴史を説明しないこと

二冊には重要な共通前提がある。巨大な歴史的結果を、ある民族や文明の生得的な優秀さだけで説明することへの警戒である。

『銃・病原菌・鉄』では、この姿勢がとくに明確だ。ヨーロッパ人が世界の広い地域を支配した歴史を、知能や勇敢さといった民族的属性によって説明するのではなく、利用可能な動植物、農耕の成立、人口密度、病原菌への免疫、技術や制度の伝播といった条件から説明しようとする。

『サピエンス全史』も、人類の歴史を単純な英雄史として描かない。国家も貨幣も企業も宗教も、特定の天才が一人で作り出したものではなく、多数の人間が共有する規則や物語によって維持される社会的仕組みとして理解される。

この点で二冊は、「誰が偉かったか」から「どのような条件や仕組みが巨大な結果を可能にしたのか」へと視点を移す。そのため、人物中心の歴史叙述とはかなり異なる世界像が現れる。

ダイアモンドは環境から、ハラリは共同主観から説明する

もっとも大きな違いは、説明の中心に何を置くかである。

ダイアモンドが重視するのは地理的・生態学的条件だ。農耕に適した植物や家畜化可能な大型動物が存在したか。農業生産によって高い人口密度を維持できたか。技術や作物が地域間を移動しやすかったか。家畜由来の感染症への免疫が形成されたか。こうした条件が長期間積み重なり、国家形成、軍事技術、文字、疾病への抵抗力などの差へ結びついたと論じる。

一方、ハラリが強調するのは、人間が現実には存在しないものについて共同で信じられる能力である。国家、法律、貨幣、株式会社、人権などは、山や川と同じ意味で物理的に存在するわけではない。しかし大勢の人間がそれを信頼し、それに従って行動することで、巨大な社会的効果を生む。

ここでは歴史を動かす力が異なる。

ダイアモンドにとって重要なのは、社会が置かれた物質的環境である。ハラリにとって重要なのは、物質的条件を超えて多数の人間を協力させる共有された意味の体系である。

二つは必ずしも対立しない。農業生産によって人口が増えても、その人口を国家として組織するには制度や信念が必要になる。逆に、いかに強力な宗教や国家理念が存在しても、生産可能な食料や利用可能な技術を無視することはできない。

むしろ二冊を組み合わせることで、「社会が可能になる物質的条件」と「社会を統合する象徴的条件」を分けて考えられる。

証拠の扱いにも違いがある

両書はともに壮大な歴史を扱うため、個々の出来事を詳細に再構成する専門的モノグラフとは性格が異なる。それでも、議論の組み立て方にはかなり差がある。

『銃・病原菌・鉄』では、農耕の起源、作物や家畜の分布、疫病、文字、技術伝播など、考古学、生態学、地理学、歴史学にまたがる比較が重要な役割を果たす。世界各地の社会を比較し、なぜある地域では農耕や国家形成が早く進み、別の地域ではそうならなかったのかを因果的に説明しようとする。

対して『サピエンス全史』には、歴史研究の紹介だけでなく、著者自身による大きな概念的整理が多い。「認知革命」「農業革命」「人類の統一」といった枠組みによって膨大な歴史を再配置し、読者に人間社会の見方そのものを変えさせようとする。

そのため、『銃・病原菌・鉄』を読んでいると「なぜこの地域でこの結果が生じたのか」という因果関係を追う感覚が強い。それに対し『サピエンス全史』では、「そもそも国家や貨幣や幸福をどのようなものとして考えるべきなのか」という概念的な問いへ話が広がりやすい。

『銃・病原菌・鉄』の弱点は決定論に見えやすいこと

ダイアモンドの説明は強力である一方、地理的・環境的要因を重視しすぎているという批判を受けてきた。

同じような環境にある社会でも、政治制度、文化、偶発的事件、戦争、指導者の判断などによって異なる歴史をたどることがある。環境は選択可能な範囲を制約するが、その範囲内で何が実際に起きるかまで一意に決めるとは限らない。

また、大きな地域単位で比較するほど、地域内部の多様性が見えにくくなる。数千年という時間幅を説明するためには抽象化が必要だが、その抽象化によって権力闘争や制度形成、人間の意図が背景へ退く危険もある。

この弱点を補ううえで、『サピエンス全史』の視点は有効である。物質的条件が似ていても、人々がどのような国家、宗教、法律、身分秩序を信じるかによって社会は違った形をとりうる。歴史には環境だけでなく、意味を共有する人間の能力が働いているからだ。

『サピエンス全史』の弱点は魅力的な物語が証拠を追い越しやすいこと

しかし『サピエンス全史』にも逆方向の問題がある。

ハラリの文章は、非常に異なる時代や地域の出来事を一つの大きな物語へ統合する力を持つ。その読みやすさこそ本書の魅力だが、壮大な説明ほど、それが厳密に証明された歴史学上の結論なのか、説明力の高い解釈なのかを区別する必要がある。

とくに先史時代の人間心理や社会構造については、残された証拠が限られるため、断定できる範囲にも限界がある。また「共有された物語」が社会を成立させるという考え方は重要だが、それだけでは、なぜある社会が別の社会より大きな軍事力や生産力を獲得したのかを十分に説明できない。

ここで『銃・病原菌・鉄』が補完になる。国家や貨幣が「共同で信じられた制度」であるとしても、ある国家が多数の人口を養い、武器を製造し、感染症への耐性を持つようになった過程には、農業、生態、技術、人口といった物質的条件がある。

ハラリの議論だけを読むと、人間社会は物語によって自由自在に形成できるかのように感じられることがある。ダイアモンドを併読すると、物語を作る人間自身が、地理や生態という制約の内部で生きていることが見えてくる。

二冊の結論はどこまで違うのか

ダイアモンドの議論から浮かぶのは、人類史の大きな格差には偶然性が含まれているという見方である。ある地域の人々が本質的に優れていたから世界を支配したのではなく、利用できる植物、動物、地理的位置など、人々自身が選んだわけではない初期条件が長期的な差を生み出した。

ハラリがさらに問い直すのは、その成功を「進歩」と呼んでよいのかという問題だ。

農業革命によって人口は増えた。しかし、それによって個々の農民が狩猟採集民より幸福になったとは限らない。帝国や市場は巨大な協力を可能にしたが、同時に支配や格差も生み出した。科学技術によって人類の能力は飛躍的に拡大したが、それが人間の幸福を比例して増加させたかは別問題である。

つまりダイアモンドが主として「なぜ勝者と敗者が生まれたのか」を説明するのに対し、ハラリは「勝者になったことは本当に成功なのか」と問い返す。

この差は重要である。因果説明と価値判断は同じではないからだ。

読むなら『銃・病原菌・鉄』から始めたい

二冊とも独立して読めるが、比較して考えるなら『銃・病原菌・鉄』を先に読む方が理解しやすい。

まずダイアモンドによって、農業、人口、疾病、技術、地理といった比較的物質的な因果関係を押さえる。すると、文明の発展が単純な民族の優劣で説明できないことが見えてくる。

その後で『サピエンス全史』を読むと、問いが一段広がる。なぜ人間は大規模社会を形成できたのか。なぜ貨幣や国家を信じられるのか。そして、巨大な文明を築いたこと自体を成功と呼んでよいのか。

逆の順番でももちろん読めるが、『サピエンス全史』の大胆な一般化を最初に受け入れてしまうと、その説明がどの程度物質的条件によって支えられているのかを見落としやすい。先にダイアモンドを置くことで、ハラリの議論を魅力的な物語として楽しみつつ、その説明範囲を検討しやすくなる。

二冊を読んでも残る問い

二冊を合わせても、人類史が完全に説明されるわけではない。むしろ重要なのは、どちらにも回収しきれない要因が見えてくることである。

地理的環境が歴史を制約し、共有された物語が大規模協力を可能にするとしても、なぜ同じような条件の社会が異なる制度を選ぶのか。政治制度や権力闘争はどこまで独立した原因なのか。個人の判断や偶然の事件は長期的歴史をどれほど変えられるのか。

さらに、過去を説明する理論が、そのまま未来予測に使えるとは限らない。農業や家畜の分布が数千年前の社会発展を左右したとしても、情報技術、人工知能、バイオテクノロジーが重要になる社会では、地理的条件の意味そのものが変化する可能性がある。

『銃・病原菌・鉄』は、人間を取り巻く条件が歴史を形づくることを教える。『サピエンス全史』は、人間がその条件の内部で意味や制度を作り出し、それによって自らの世界を変えてきたことを強調する。

人類史を理解するには、「環境が人間を作ったのか、それとも人間が世界を作ったのか」という二者択一では足りない。より重要なのは、制約された環境の中で、人間がどこまで異なる社会を作りうるのかという問いである。二冊を比較する価値は、その問いを一方だけでは見えない形で浮かび上がらせるところにある。

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