「傷つかないこと」は教育の目的なのか
ジョナサン・ハイトとグレッグ・ルキアノフの『The Coddling of the American Mind』が扱うのは、単なる「最近の大学生は打たれ弱い」という世代論ではない。本書が投げかける重要な問いは、教育機関が学生を心理的な危険から守ろうとするとき、その保護がかえって学生の成長を妨げることはないのか、という点にある。
著者たちが問題視するのは、米国の大学を中心に広がったとされるセーフ・スペース、トリガー警告、発言者への抗議、招待講演の中止要求などである。しかし個々の制度への賛否よりも、本書の核心は、それらの背後に「不快な経験は人を傷つけるので避けるべきだ」という発想が存在すると見るところにある。
ここで著者たちは、教育を安全確保の場ではなく、一定の摩擦を経験することで判断力を形成する場として捉える。もしこの前提を受け入れるなら、善意による保護が逆効果になるという本書の逆説は強い説得力を持つ。
ただし問題は、その「摩擦」が誰にとっても同じ意味を持つとは限らないことだ。本書の価値と限界は、まさにこの点をどう考えるかにかかっている。
三つの「大いなる誤り」という診断
本書は、若者の文化に三つの誤った考え方が入り込んだと論じる。それは概略的に言えば、「困難は人を弱くする」「感情を常に信頼すべきである」「世界は善人と悪人の闘争である」という考え方である。
第一の論点には、本書を象徴する「反脆弱性」の発想がある。身体の免疫や筋肉と同じように、人間の心理も適度な困難を経験することで強くなる場合がある。したがって危険を完全に除去しようとする環境は、短期的には安心を与えても、長期的には困難への耐性を育てない可能性がある。
第二の論点では、認知行動療法の考え方が重要な役割を果たす。不安や怒りを感じたという事実と、その感情が示す解釈が正しいということは別である。教育とは、自分の最初の解釈を疑い、別の可能性を検討する能力を訓練する営みでもある。その意味で、「不快に感じたから有害である」という推論を著者たちは警戒する。
第三の論点は政治的分極化に関わる。相手を誤っている人ではなく悪意ある敵として捉えれば、議論より排除が合理的になる。大学が異なる意見を検討する制度であるなら、この善悪二分法はその機能を損なう。
これら三点は相互に独立していない。不快な意見を危険と見なし、自分の感情をその危険の証拠とし、発言者を悪人と判断するという連鎖が成立するからである。本書は個々のキャンパス事件を、この心理的・文化的な構造の表れとして読む。
本書の強さは「善意の逆効果」を説明したことにある
本書の最も重要な貢献は、教育における保護を単純な善として扱わなかったことである。
子どもを危険から守ること自体は当然必要だ。しかし、重大な危険と一時的な不快感を同じように扱えば、保護の範囲は際限なく拡大する。さらに、不快な対象から距離を取ることが常に推奨されれば、不安の対象に接触しても対処できるという経験を得にくくなる。
この論理は大学だけに限定されない。子育て、学校教育、職場の研修、オンライン空間の設計にも応用できる。「どうすれば不快な出来事をなくせるか」ではなく、「どの程度の困難なら経験させることが本人の能力形成につながるのか」と問い直させるからだ。
また本書は、言論の自由を法律上の権利だけでなく、認識を改善する仕組みとして擁護している。間違った考えを訂正するためには、異なる考えが表明される必要がある。自分が誤っている可能性を制度として残すという点で、自由な討論は教育方法でもある。
この意味で、本書は「好きなことを自由に言わせろ」という単純な言論自由論よりも射程が広い。問題にしているのは、反対意見に接したとき、それを検討対象とするのか、心理的危険と分類するのかという認識の習慣そのものだからである。
しかし「不快」と「有害」の境界はそれほど単純ではない
本書への代表的な批判は、大学で起きた象徴的な事件を取り上げることで、米国の学生文化全体を必要以上に一般化しているのではないか、というものだろう。
著者たちが紹介する事例には確かに印象的なものが多い。しかし、注目を集める事件がどの程度一般的なのかは別問題である。大学には非常に多様な学生と教育現場が存在する。少数の激しい抗議行動から「一世代の思想」を推定するなら、標本の偏りを疑う必要がある。
さらに難しいのは、著者たちが区別しようとする「物理的危険」と「心理的不快」が、現実には明確に二分できないことである。
執拗な嫌がらせや脅迫を受けている学生に対し、「不快な言論にも耐えるべきだ」と言っても教育的ではない。権力関係や差別の歴史を無視すれば、表面上は同じ発言でも、受け手に与える意味は異なりうる。
したがって本書の議論を採用するとしても、「心理的安全への配慮は不要だ」という結論にはならない。本当に必要なのは、保護するべき害と、学習のために耐えるべき不快をどう区別するかという難しい制度設計である。
むしろこの境界問題こそ、本書自身が十分に解決していない課題だと言える。
若者の変化を心理学だけで説明できるか
著者たちは大学文化の変化を、過保護な子育て、自由な遊びの減少、ソーシャルメディア、政治的分極化、若者の精神的不調など複数の要因と結びつける。
ここには本書の長所と弱点が同時にある。単一の原因に還元しないことは慎重だが、多くの現象を一つの物語に配置するほど、因果関係の確定は難しくなる。
たとえばスマートフォンやソーシャルメディアの普及時期と若者の精神状態の変化が重なっていたとしても、それだけで前者が後者を引き起こしたとは言えない。家族環境、経済状況、教育競争、社会的孤立など、他の要因も考えられる。
本書を読む際には、著者たちの提示する因果モデルを「確立された説明」と見るより、有力な仮説群として読むほうがよい。
一方で、この不確実性は本書の中心命題を完全には崩さない。たとえ若者の不安増加の原因が別にあったとしても、「不安を感じる対象をすべて避けさせれば不安への対処能力が高まるのか」という問いは独立して残るからである。
反論しても残る核心
本書に対する強い反論は可能である。学生運動は歴史的に珍しくない。大学の言論環境が全面的に閉鎖的になったと断定するには広範な証拠が必要である。また、弱い立場の人に「もっと強くなれ」と要求する言説が、制度側の責任を隠す場合もある。
それでも本書の中心にある警告は簡単には消えない。
それは、善意の介入には副作用がありうる、という警告である。
教育者が不安を減らそうとする。親が失敗を避けさせようとする。大学が衝突をなくそうとする。それぞれの判断を局所的に見れば合理的でも、それが積み重なった結果、自分で危険を評価し、失敗から回復し、嫌いな相手と議論する能力が育たなくなる可能性がある。
この構造は、教育論としてかなり重要である。良い意図が良い結果を保証しないというだけでなく、「短期的な苦痛の減少」と「長期的な能力形成」が対立する場合があることを示すからだ。
『The Righteous Mind』から続くハイトの問題意識
本書は、ハイトのそれ以前の著作、とりわけ『The Righteous Mind』と並べると位置づけが分かりやすい。
『The Righteous Mind』では、人間の政治的・道徳的判断が純粋な論理によって形成されるわけではなく、直観や集団への帰属に強く左右されることが論じられた。本書では、その認識が教育問題へ移される。人間がもともと自分の集団を正当化し、相手集団を悪く見る傾向を持つのであれば、大学はその傾向を強化する場所ではなく、意識的に逆らう場所でなければならない。
また、ナシーム・ニコラス・タレブの「反脆弱性」という発想との関係も明白である。ただし社会制度への適用には注意が必要だ。適度な負荷によって強くなるものがあるからといって、あらゆる負荷が有益なわけではない。運動が身体を強くすることと、重大な外傷が身体を強くすることは同じではない。
したがって本書から得るべき教訓は「苦労させればよい」ではなく、「成長可能な負荷と破壊的な負荷を区別せよ」である。
出版後、本書の問いは大学の外へ広がった
出版時、本書は米国大学における言論と学生文化をめぐる論争の中で読まれた。しかし、その後のオンライン社会を考えると、論点は大学キャンパスにとどまらない。
SNSでは、相手の発言を最も悪意ある形で解釈することが容易であり、同じ意見を持つ集団だけで情報を共有することもできる。異論への接触を避ける仕組みと、敵味方を瞬時に分類する仕組みが同時に存在している。
その意味で、本書が診断した問題の一部は、大学固有の病理というより、現代の情報環境が増幅する人間の一般的傾向として読み直すことができる。
一方で、大学をめぐる論争には政治的な利用も付きまとう。「学生は弱くなった」という物語そのものが、別の陣営意識を強化する可能性がある。本書を支持する側が、自分たちを合理的な側、批判者を非合理的な側と単純化するなら、それは著者たち自身が警告した「善対悪」の思考を再現してしまう。
ここに本書を読む際の興味深い自己言及性がある。
再読するときに問うべきこと
初読では、本書は過保護な教育やキャンパス文化への批判として読める。しかし再読では、「誰が過保護なのか」より、「教育はどのような人間を育てようとしているのか」と問い直したほうがよい。
不快な意見に耐えられることだけが教育の成果ではない。他人が現実に受けている苦痛を理解する能力も必要である。逆に共感だけを重視し、誤った主張まで批判できなくなれば、知的探究は成立しない。
必要なのは強さか優しさか、自由か安全か、という二者択一ではない。重要なのは、それぞれをどの場面で、どこまで要求するかである。
その意味で『The Coddling of the American Mind』の最も有益な読み方は、著者たちの「若者診断」に全面的に同意することではない。自分が誰かを守ろうとするとき、その介入が相手の将来の能力を奪っていないかを問うことである。
そして同時に、誰かに困難への耐性を求めるとき、その困難が本当に成長の機会なのか、それとも単に回避可能な害を放置しているだけなのかも問わなければならない。
本書が長く残す価値があるとすれば、この二つの問いを同時に突きつける点にある。