「進歩」は事実なのか、物語なのか
「社会は進歩している」という言い方には、少なくとも二つの異なる意味が含まれている。一つは、平均寿命、識字率、所得、乳幼児死亡率、暴力による死亡など、測定可能な指標が長期的に改善したという経験的な主張である。もう一つは、人類社会がより望ましい状態へ向かっているという価値判断を含む主張である。
この二つは似ているが同じではない。ある指標が改善しても、それだけで社会全体が「より良くなった」とは言えないからだ。所得が増える一方で環境負荷が拡大することもある。感染症による死亡が減る一方で、別の種類の疾病や孤立が問題になることもある。
近現代の知的ノンフィクションで「進歩」が争点になるのは、この事実判断と価値判断の境界が曖昧だからである。スティーブン・ピンカー、ハンス・ロスリング、ユヴァル・ノア・ハラリ、ジャレド・ダイアモンドらを横断して読むと、「進歩」という一語の背後に、かなり異なる問いが隠れていることが分かる。
ピンカーが示すのは「長期的な改善」である
スティーブン・ピンカーは『暴力の人類史』や『21世紀の啓蒙』で、長期的な統計を用いて、人類の生活条件の多くが改善してきたと論じる。
とくに重要なのは、彼の議論が単純な「未来は必ず明るい」という楽観論ではないことである。戦争、殺人、飢餓、乳幼児死亡、疾病など、人間にとって直接的な損失となる現象を比較し、その発生率や被害が長期的に低下している領域を示そうとする。
ここでの進歩は、おおむね「過去よりも現在のほうが、人間が死亡したり苦痛を受けたりする確率が低くなっている」という意味で使われている。
その背景には、科学、教育、市場経済、民主的制度、法の支配、人権思想などを重視する啓蒙主義的な立場がある。したがってピンカーにとって進歩とは自然現象ではない。特定の制度や知識体系が生み出した成果であり、それらを維持しなければ逆転しうる。
この考え方の強みは、進歩について語るときに「昔より豊かになった気がする」といった印象論ではなく、比較可能なデータを要求する点にある。
しかし同時に、何を測定するかという問題が残る。寿命や死亡率は比較しやすいが、疎外感、共同体の喪失、自然との関係、仕事の意味といった要素は数値化しにくい。測定可能なものだけを重視すれば、進歩の定義そのものが測定可能性によって偏る危険がある。
ロスリングは「世界は良くなった」と言っているだけではない
『FACTFULNESS』のハンス・ロスリングも、世界について悲観的すぎる認識を修正しようとした人物として知られている。
貧困、教育、健康、人口などの長期的変化を見ると、多くの人が想像しているほど世界は悪化一辺倒ではない。ロスリングが問題にしたのは、改善が起きているにもかかわらず、人間が世界を「どんどん悪くなっている」と理解しやすいことである。
この議論はピンカーと近い。しかしロスリングの中心的な問題意識は、文明史全体を説明するというより、世界についての認知の歪みを修正することにある。
重要なのは、「改善している」と「良い状態である」を区別する点である。
極度の貧困が減少しているとしても、貧困そのものが消えたわけではない。乳幼児死亡率が低下しているとしても、死亡する子どもが存在しなくなったわけでもない。「以前より良い」という相対評価と、「現在の状態で十分である」という絶対評価を混同すると、進歩論は現状肯定論になってしまう。
ロスリング型の進歩観が持つ価値は、むしろこの区別にある。世界には改善している問題と深刻なままの問題が同時に存在できる。
ハラリは「進歩した人類は幸福になったのか」と問う
進歩に対してより距離を取るのが、『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリである。
農業革命、国家形成、貨幣、帝国、科学革命、産業化などを通じて、人類は巨大な協力社会を形成し、生産能力を飛躍的に増大させてきた。しかしハラリは、それをそのまま個々の人間の幸福の増大とはみなさない。
典型的なのが農業革命についての議論である。農耕によって単位面積あたり多くの人間を養えるようになったとしても、それは個々の農民の生活が狩猟採集民より快適になったことを意味しない。人口や社会の規模にとって「成功」であっても、個人にとっては長時間労働や単調な食生活を伴った可能性がある。
ここでは進歩の評価主体が問題になる。
国家にとっての進歩なのか。人口にとっての進歩なのか。企業にとっての進歩なのか。それとも一人ひとりの人間にとっての進歩なのか。
GDPが増え、国家が強くなり、科学技術が高度化したとしても、それだけで個人が幸福になったとは結論できない。
ただし、狩猟採集社会と農耕社会の生活の質を広範囲かつ精密に比較することは難しい。考古学的証拠には限界があり、地域や時代による差も大きい。そのため、この種の議論を「農業化によって人類は不幸になった」という単純な歴史法則として受け取るべきではない。
ダイアモンドが問い直す「文明化=進歩」
ジャレド・ダイアモンドの著作にも、文明化を直線的な進歩として理解することへの警戒がある。
『銃・病原菌・鉄』では、ある社会が世界を支配した理由を民族的な能力差ではなく、地理、生物資源、農耕可能性、感染症、技術の伝播などから説明しようとする。
この視点に立てば、強大な国家や高度な技術を持つ社会が成立したことは、その社会の人々が本質的に「進歩していた」ことの証明にはならない。歴史的成功と道徳的優越は切り離される。
さらに『文明崩壊』では、高度な社会であっても環境への対応や政治的判断を誤れば衰退しうることが論じられる。
つまり文明は、自動的により高度な段階へ上昇し続けるものではない。
この点で、進歩の対立概念は単純な「停滞」ではなく、「脆弱性」である。ある技術や制度によって能力が拡大すると、それまで存在しなかった依存関係や破局の可能性も生まれる。
進歩の最大の問題は「何が増えればよいのか」である
ここまでの議論から分かるのは、「人類は進歩したか」という問いが、そのままでは曖昧すぎるということである。
寿命が延びたか。
暴力が減ったか。
所得が増えたか。
自由が拡大したか。
幸福になったか。
格差が縮小したか。
自然環境を維持できているか。
どの指標を採用するかによって答えは変わる。
たとえば産業革命以後、生産能力や技術力が巨大化したこと自体は否定しにくい。しかし化石燃料の大量使用は気候変動という別の問題を生み出した。医学の発達は多くの生命を救ったが、高度な医療技術は医療費や資源配分という新たな問題も提起する。
技術的能力の拡大と、社会全体の望ましさは一致しない。
したがって「進歩」を考えるときには、少なくとも「何が改善したのか」「誰にとって改善したのか」「どの期間を比較しているのか」を明確にする必要がある。
「進歩史観」への批判
進歩概念への代表的な批判の一つは、歴史を一方向の発展として描いてしまうことである。
近代化、工業化、都市化、科学化、民主化などを一つの線上に並べ、すべての社会が最終的に同じ方向へ進むと考えるなら、それは単なる観察ではなく歴史哲学になる。
この発想は、現在の社会を過去の社会より「上位」に置きやすい。また、西欧近代を発展の基準として設定すれば、それとは異なる社会制度や生活様式を「遅れている」と評価する危険もある。
一方で、この批判から「進歩というものは存在しない」と結論する必要もない。
天然痘の根絶のように、特定の疾病による死亡をなくすことを改善と呼ぶのは比較的容易である。乳幼児死亡率の低下や飢餓の減少についても、それを望ましくないと考える立場は通常かなり限定される。
問題なのは、個別の改善から「歴史全体には進歩の法則がある」と飛躍することである。
進歩と成長は同じではない
現代社会では、進歩がしばしば経済成長と結びつけられる。
GDPが増加し、消費量が増え、生産性が上昇すれば、社会は前進しているように見える。しかし経済成長は進歩を構成しうる一要素であって、進歩そのものではない。
経済が拡大しても、その果実が一部に集中する可能性がある。生活が豊かになっても、生態系への負荷が持続不能になる可能性もある。逆に、経済成長率が低くても、医療、教育、安全、自由時間などが改善することは理論上ありうる。
ここから、現代の進歩論は「どれだけ多く生産するか」から「どのような生活能力を拡大するか」という問いへ広がっている。
進歩を単一の数字に還元できない理由はここにある。
AI時代に進歩概念は再び難しくなる
人工知能は、進歩をめぐる古い問題を新しい形で突きつける。
AIによって研究、翻訳、プログラミング、事務処理などの能力が高まれば、それは技術的進歩と呼べる。しかし社会的進歩であるかどうかは別問題である。
生産性が上昇しても利益が少数の企業や資本所有者に集中するなら、所得格差は拡大するかもしれない。仕事から単純作業が減る一方で、職業上の自律性や技能形成の機会が失われる可能性もある。医療や教育へのアクセスが改善する可能性がある一方、監視や情報操作の能力も強くなりうる。
つまり技術は「何が可能か」を変えるが、「何を望ましいとするか」を自動的には決めてくれない。
これは進歩概念の核心でもある。
「進歩したか」ではなく「何が、誰にとって、どの代償で改善したか」
ピンカーやロスリングの議論からは、悲観的な印象だけで歴史を評価してはいけないことを学べる。ハラリからは、集団の成功と個人の幸福を区別する必要性が見えてくる。ダイアモンドの議論は、文明の発展を必然的な上昇過程として理解する危うさを示す。
これらを合わせれば、「進歩しているか、していないか」という二択そのものが不十分だと分かる。
より有効なのは、問いを分解することである。
何が改善したのか。その改善をどの指標で確認できるのか。誰が利益を得たのか。誰が負担したのか。その改善は持続可能なのか。そして改善によって新しい問題が生じていないか。
進歩という概念は、この問いを省略してしまうと、文明を称賛する便利な物語にも、近代社会を否定するための標的にもなる。
反対に、具体的な指標、評価主体、時間軸、代償を明示すれば、進歩は有用な分析概念になる。
人類史を「すべて良くなっている」と読む必要も、「何も良くなっていない」と読む必要もない。進歩とは一本の矢印ではなく、異なる方向へ同時に動く多数の変化を、何を価値あるものと考えるかという基準によって評価した結果なのである。