問いは「差別が終わった後」に何が残るのか
ミシェル・アレグザンダーの『The New Jim Crow』が投げかける問いは、米国社会における人種差別を、露骨な差別法の存否だけで測ってよいのか、というものである。公民権運動を経て法的な人種隔離が否定され、表向きには「人種に中立」な制度が整えられた。それでも黒人、とりわけ黒人男性が刑事司法制度によって不均衡に拘束され、その後も長く社会参加を制限されているとすれば、差別は消滅したのではなく、形態を変えただけではないか。
本書が用いる「新しいジム・クロウ」という表現は、この疑問を最大限に強い言葉へ圧縮したものだ。南部諸州の人種隔離制度と現代の大量収監は同一ではない。しかしアレグザンダーは、両者の制度的な違いよりも、人々を特定の身分へ分類し、その身分を根拠として政治的・経済的・社会的権利を制約する機能上の類似に注目する。
したがって、本書の価値を判断するには、「現代の刑事司法は本当にジム・クロウの再来なのか」という比喩の正否だけを問うべきではない。より重要なのは、形式的な平等が成立した社会でも、制度の組み合わせによって持続的な格差が再生産されうる、という本書の視点がどこまで有効なのかを検討することである。
中心主張――大量収監は犯罪対策だけでは説明できない
本書の中心主張は、米国で20世紀後半に拡大した大量収監を、単純な犯罪増加への合理的対応として理解することはできず、とりわけ「麻薬戦争」を中心とする政策が黒人コミュニティーに集中して作用することで、新たな人種的階層を形成した、というものである。
この議論で重要なのは、刑務所に入れられる期間だけを問題にしていない点だ。有罪判決を受けた者は、刑期終了後も就労、住宅、社会保障、選挙権などをめぐって不利益を受ける場合がある。州や制度によって具体的な扱いは異なるため一括りにはできないが、アレグザンダーが注目するのは、刑事司法による「犯罪者」という分類が、その後の市民生活にまで影響を及ぼす構造である。
この観点から見ると、逮捕、起訴、司法取引、収監、釈放後の制約は別々の問題ではない。それらが連結されることで、一度刑事司法制度に取り込まれた人が社会の周縁に固定されやすくなる。本書の特徴は、大量収監を刑務所人口の問題ではなく、市民権の配分をめぐる問題として読み替えたところにある。
根拠の強さ――「人種中立」の制度を見る視角
アレグザンダーの議論を支える重要な論点の一つが、政策の文言が人種中立であることと、政策の結果が人種的に中立であることは別だ、という区別である。
麻薬犯罪を取り締まる法律が特定の人種だけを対象としていなくても、誰を停止させ、誰を捜索し、誰を逮捕し、誰を起訴するかという執行段階に大きな裁量が存在すれば、その結果には偏りが生じうる。本書はさらに、こうした格差を法廷で人種差別として争うことの難しさにも注意を向ける。明示的な差別意図を証明することが要求される場面では、統計的な格差が存在するだけでは救済に結びつかない場合がある。
ここで本書が提示した視角は強力である。現代の差別を考える際、「差別的な規則が書かれているか」だけを見るのでは足りない。制度設計、裁量、インセンティブ、司法判断、社会的烙印がどのように組み合わさるのかを見る必要がある。
ただし、この強さは同時に弱点にもなる。制度全体を一つのメカニズムとして描くほど、個々の地域、犯罪類型、時代、政策決定者の動機の違いは見えにくくなるからだ。
「新しいジム・クロウ」という比喩はどこまで有効か
本書でもっとも議論を呼ぶのは、やはり表題そのものだろう。
ジム・クロウ体制では、人種による隔離が明示的に法制度化されていた。これに対し現代の刑事司法制度は、少なくとも形式上は犯罪行為を基準として作動する。また大量収監の影響を受けるのは黒人だけではなく、白人や他の人種集団の貧困層も含まれる。この差を軽視すれば、歴史的な人種隔離制度の特殊性まで曖昧にしかねない。
それでもアレグザンダーの比喩には分析上の意味がある。彼女が同一性を主張していると読むより、「人種的支配は同じ制度を永久に使用する必要がない」と読む方が、本書の問題提起を正確につかめるからだ。ある制度が廃止されても、別の分類方法が似た社会的効果を生み出す可能性はある。
したがって争点は、「大量収監=ジム・クロウ」という等式が文字どおり正しいかではなく、現代社会において合法的で人種中立に見える制度が、歴史的格差をどの程度引き継ぎうるのか、という点にある。
代表的批判――麻薬戦争だけでは大量収監を説明できない
本書への重要な批判は、大量収監の原因を麻薬戦争に寄せすぎているというものだ。
後にジョン・プファフの『Locked In』などが強調したように、米国の刑務所人口増加を説明するには、薬物犯罪だけでなく暴力犯罪、検察官の裁量、州レベルの刑事司法制度などを見る必要がある。大量収監という巨大な現象を、麻薬政策だけから説明することには限界がある。
ジェームズ・フォーマン・ジュニアの『Locking Up Our Own』が提示した論点も重要である。犯罪に苦しむ黒人コミュニティーの内部にも、治安改善を求めて厳しい刑事政策を支持した政治家や市民が存在した。刑罰国家を単純に「白人社会が黒人社会に押しつけた制度」として描けば、こうした複雑な政治過程を取りこぼしてしまう。
この批判は本書にとって軽微ではない。もし大量収監の主要因がアレグザンダーの描くものより多元的ならば、「新しい人種的カースト制度」という一つの物語で全体を説明することは難しくなる。
それでも反論は可能である
しかし、この批判によって本書の主張が全面的に崩れるわけでもない。
第一に、大量収監の「原因」と、その制度が生み出す「人種的効果」は区別できる。仮に刑務所人口増加のすべてを麻薬戦争が説明できなくても、刑事司法制度への接触や前科による不利益が人種的に偏って分布しているならば、本書が問う市民権の問題は残る。
第二に、黒人政治家や住民自身が厳罰政策を支持した事例があったとしても、それだけで制度の人種的不均衡が否定されるわけではない。高い犯罪率への対応を迫られた地域社会がどの選択肢を利用可能だったのか、警察・福祉・教育・雇用政策への資源配分がどうなっていたのかまで考える必要がある。
むしろ後続研究が示したのは、本書を捨てるべきだということより、その大きな構図を分解しなければならないということだろう。麻薬政策、暴力犯罪、検察、地方政治、貧困、住宅隔離、教育、雇用を区別し、その相互作用を調べることで、本書の仮説はより検証可能になる。
本書の前提――差別を「意図」より「構造」で見る
『The New Jim Crow』の根底には、社会制度を評価するとき、個人の差別意識だけを中心にしてはならないという前提がある。
誰も「黒人を差別したい」と明言していなくても、過去に形成された格差の上で制度が作動し、裁量が偏って行使され、刑事記録による不利益が累積すれば、結果として人種的階層が維持される可能性がある。この構造的な見方こそ、本書を犯罪政策論以上のものにしている。
一方、この前提を強く採用しすぎれば、異なる因果関係をすべて「構造的人種差別」という概念へ回収してしまう危険もある。犯罪被害、地域ごとの治安状況、所得階層、家族構成、政策選択などを個別に検証しなければ、説明概念が広すぎて反証不能になりかねない。
本書を読む際には、構造を見ることと、構造という言葉ですべてを説明してしまうことを区別する必要がある。
出版後の位置――答えというより議題設定の書
2010年に刊行された『The New Jim Crow』は、その後の米国における大量収監、人種格差、刑事司法改革をめぐる議論で広く参照される一冊となった。本書の影響は、個々の実証命題がすべて確定したことを意味しない。むしろ、それまで治安政策や犯罪対策として語られがちだった大量収監を、公民権と人種的階層の問題として読み直す語彙を広めたことにある。
その意味では、本書は後続研究によって「証明された古典」というより、後続研究が修正し続ける議題設定の書として読む方がよい。
プファフを読めば、収監増加の因果関係は本書より複雑に見える。フォーマンを読めば、黒人コミュニティー内部の政治的選択も無視できなくなる。一方、それらを読んだ後でも、なぜ刑事司法制度への接触がこれほど深く市民生活を左右するのかというアレグザンダーの問いは消えない。
優れた批評書の役割は、すべての論争に決着をつけることではない。何を問題として数えるべきか、その境界線を変えることである。その基準なら、『The New Jim Crow』の重要性は大きい。
再読するときに問うべきこと
本書を再読するなら、「アレグザンダーは正しいか、間違っているか」だけを問うのは惜しい。
より有益なのは、どの主張が大量収監の原因についての主張で、どの主張がその結果についての主張なのかを分けることだ。麻薬戦争の位置づけを修正した場合でも、人種的格差についての議論はどこまで残るのか。反対に、人種的不均衡が確認されたとして、それだけで制度を「カースト」と呼ぶことは正当化されるのか。
さらに問うべきなのは、刑罰を終えた人に社会がどこまで不利益を課し続けることを正当化できるのか、という問題である。ここでは人種問題を越えて、刑罰とは何のためにあるのか、市民権はどこまで条件付きでよいのかという政治哲学的な問いが現れる。
『The New Jim Crow』のもっとも持続的な価値は、大量収監について一つの完成した説明を与えたことではない。差別を過去の露骨な法律だけに探すのではなく、一見中立的な制度が誰を分類し、その分類がその後の人生をどう変えるのかを見るよう読者に迫ったことにある。
その視点を受け入れたうえで、なお本書自身の単純化を疑うこと。そこから初めて、この本を古典としてではなく、検証され続ける仮説として読むことができる。