貧しい国は、なぜ貧しいのか
『Why Nations Fail』が投げかける問いは単純である。なぜ、ある国は豊かになり、別の国は長期にわたって貧しいままなのか。
しかし、ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンが本書で挑戦するのは、貧困の原因を一つ追加することではない。地理、気候、文化、為政者の無知といった説明よりも、政治的・経済的な「制度」を分析の中心に置き直すことである。
重要なのは、この主張を「良い制度の国は豊かになる」という常識的な命題に縮めないことだ。本書の核心はむしろ、**誰が制度を決める力を持ち、その制度によって誰が利益を得るのか**という政治的な問題にある。
その意味で『Why Nations Fail』は経済成長論であると同時に、権力についての本でもある。
「包摂的」と「収奪的」という大胆な整理
本書でもっとも有名なのが、制度を「包摂的(inclusive)」と「収奪的(extractive)」に分ける枠組みである。
包摂的な経済制度では、比較的広い人々が財産を持ち、職業を選び、投資や起業を行う余地を持つ。政治制度についても、権力が特定の個人や集団だけに極端に集中せず、一定の多元性が存在する。
反対に収奪的制度では、少数者が多数者の生産物や機会を取り込み、政治権力もその構造を維持する方向に使われる。
この区別が強力なのは、経済制度と政治制度を別々に扱わない点にある。
新しい技術や産業は社会全体を豊かにする可能性を持つが、同時に既存の支配者の地位を脅かす。したがって支配者が合理的であっても、社会全体の成長につながる改革を拒否することがありうる。
ここから本書の重要な洞察が生まれる。貧困は必ずしも「正しい政策を知らないから」発生するのではない。**社会全体にとって非効率な制度が、権力者にとっては合理的である場合がある。**
政策助言だけでは変化しない社会が存在する理由を、この説明はかなりうまく捉えている。
歴史は制度の実験室になりうるか
著者たちは世界各地の歴史を横断し、制度の違いと経済発展を結びつける。
植民地支配の形態、イングランドの政治変化、南北朝鮮の分断、都市や地域の境界によって異なる発展などが動員される。そこで繰り返されるのは、地理や民族が比較的近くても、異なる制度の下では異なる経済的帰結が生じうるという論法である。
さらに本書は「決定的分岐点」と呼べる歴史的局面を重視する。戦争、疫病、政治革命、植民地化などの大きな変化が既存制度を揺さぶり、それ以前には小さかった制度差を拡大することがある。
この歴史観には魅力がある。
すべてを最初から決める単一の原因を想定せず、偶然性や政治闘争を取り込めるからだ。同じ危機がどこでも同じ結果を生むわけではなく、それまでに形成されていた権力関係によって結果が変わる。
一方で、ここには本書の弱点も隠れている。
歴史上の成功例と失敗例を後から並べれば、結果に合う制度的説明を構成することは比較的容易である。「包摂的」「収奪的」という概念自体が広いため、何をもってどちらに分類するかが曖昧になれば、理論は反証されにくくなる。
歴史を大量に扱うことと、因果関係を厳密に証明することは同じではない。
地理や文化は、本当に脇役なのか
本書のもっとも代表的な批判の一つは、制度を重視するあまり、地理・文化・人口構造・国際関係などを過小評価しているのではないか、というものである。
たとえばジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』は、家畜化可能な動植物、大陸の形状、病原菌への免疫など、長期的な地理・生態的条件を重視した。
『Why Nations Fail』は、こうした説明だけでは現代の国家間格差を十分に説明できないと批判する。
だが両者を完全な二者択一として読む必要はない。
地理が生産可能性や疾病環境、交易条件を左右し、その条件の下で制度が形成されることはありうる。逆に制度が灌漑、衛生、教育、インフラへの投資を変え、地理的制約の影響を弱めることもある。
問題は「地理か制度か」ではなく、**どの時間尺度で、どの因果経路を説明しているのか**である。
本書の制度論は、地理説明を完全に否定すると弱くなる。しかし、地理的条件が似ている場所でも大きな差が生まれる理由を説明する中間メカニズムとして読むなら、説得力は増す。
中国は反例なのか
制度論への難問としてしばしば浮上するのが、政治的多元性を十分に備えていない国家でも高い経済成長が可能ではないか、という問題である。
本書自身も、収奪的な政治制度の下で一定期間の成長が起こりうることは認めている。国家が資源を特定産業へ集中させたり、既存技術を導入したりすることで成長できるからだ。
したがって「非民主的な国は成長できない」という単純な命題を本書に帰するのは正確ではない。
より強い主張は、革新を継続的に生み出す長期成長には、既存権力を脅かす新規参入者や新技術を許容できる制度が必要だ、というものである。
ただし、この命題の検証には非常に長い時間が必要になる。「いま成長しているが、将来失速するはずだ」という理論は、短期的には反証が難しい。
この点は本書の予言力を評価するときに残る問題である。
制度は原因なのか、それとも結果なのか
さらに深い批判は、制度そのものの起源に向けられる。
豊かな国に良い制度が存在することが分かったとしても、それだけでは良い制度が豊かさを生んだとは言えない。豊かになった結果として教育水準が上がり、中間層が拡大し、政治制度が改善した可能性もある。
著者たちはこの内生性の問題を意識し、歴史的な分岐や外生的な衝撃を利用して因果方向を説明しようとする。
それでも、巨大な歴史過程を一つの変数で切り分けることは難しい。
国家能力、法制度、財産権、政治参加、官僚制、治安、教育、社会的信頼などは互いに影響する。「制度」という言葉を大きく取りすぎれば、それらをまとめて「制度が重要だ」と呼んでいるだけにもなりかねない。
本書を批判的に読む際には、「制度が重要か」ではなく、**制度のどの要素が、どの経路を通じ、どの条件で成長に影響するのか**まで分解する必要がある。
本書の最大の価値は「政策」より「権力」を見ることにある
それでも『Why Nations Fail』が広く読まれてきた理由は明確である。
経済発展を、正しい政策を採用すれば解決できる技術的問題として描かなかったからだ。
税制を変える。教育を改善する。規制を緩和する。インフラを整備する。個々の政策としては正しくても、それによって損失を受ける有力者が政治を支配していれば実行されない。
この視点を得ると、「なぜ明らかに非効率な制度が残るのか」という問いへの見方が変わる。
非効率だから消えるのではない。それを維持することで利益を得る主体が存在する限り、非効率な制度にも強い持続性がある。
この意味で本書が読者に要求しているのは、政策の中身だけを見ることではなく、その政策を成立させたり阻止したりする権力構造を見ることである。
他書と並べると、制度論の輪郭が見える
『銃・病原菌・鉄』と並べれば、地理と制度という説明の時間尺度の違いが見える。
フランシス・フクヤマの『政治の起源』などと比較すれば、国家能力、法の支配、政治的説明責任を一括して「包摂性」と呼ぶことの利点と限界が見えてくる。
また、アセモグルとロビンソン自身の後の議論を読むと、問題意識が単純な民主主義礼賛ではないことも理解しやすい。自由な社会には国家権力を弱くするだけでなく、強すぎる国家と弱すぎる社会の双方を避ける必要があるという方向へ、議論はさらに精緻化されていく。
こうして見ると『Why Nations Fail』は、国家発展についての最終回答というより、地理・文化・市場だけでは捉えにくかった「政治権力と経済制度の相互作用」を議論の中心へ押し出した本として位置づけるのがよい。
再読するときに問いたいこと
初読では、「包摂的制度が成長を生み、収奪的制度が停滞を生む」という構図が強く印象に残る。
再読では、むしろその分類が崩れる場所に注目したい。
ある制度は誰にとって包摂的なのか。政治的包摂性と経済的包摂性が食い違う場合はどう考えるのか。強い国家能力は収奪の道具にも公共財供給の条件にもなるが、その境界はどこにあるのか。経済成長を実現した制度が、格差や環境負荷を拡大した場合、それでも「成功」と呼べるのか。
そしてもっとも重要なのは、制度を説明変数として使った瞬間に分析を終えないことである。
**なぜ、その制度が成立したのか。なぜ人々はそれを変えられないのか。誰が変化を恐れ、誰が変化によって利益を得るのか。**
『Why Nations Fail』の価値は、「国家が失敗する理由」を一度で教えてくれることにはない。
国家の豊かさを考えるとき、経済指標の背後にある権力関係を見逃さないための問いを残したことにある。