データは世界そのものではない
現代の知的ノンフィクションでは、データが特別な地位を与えられることが多い。「印象ではなく数字を見る」「事実に基づいて考える」という態度は、偏見や思い込みを修正するための重要な原則である。ハンス・ロスリングらの『FACTFULNESS』が強調したのも、世界についての悲観的な思い込みを、長期的な統計によって点検する姿勢だった。
しかし、ここには一つの落とし穴がある。データを重視することと、データを世界そのものだと考えることは同じではない。
統計とは、現実から特定の側面を選び、定義し、測定し、分類した結果である。したがって「データを見れば現実が分かる」というより、「どのようなデータなら何が分かるのか」を考える必要がある。
統計・データをめぐる本を読むとき、本当に重要なのは数字そのものよりも、数字と世界のあいだにあるこの変換過程である。
世界は改善しているのか
『FACTFULNESS』が提示する重要な問いの一つは、「世界は私たちが思っているほど悪くなっているのか」である。
極度の貧困、乳幼児死亡、平均寿命、教育などの長期的指標を見ると、人類が大きな改善を経験してきた領域は確かに存在する。ニュースが事件や危機を中心に報じるのに対し、統計は数十年間の変化を示せるため、短期的な印象を補正する力を持つ。
ここから導かれる教訓は、「世界は良くなっている」という単純な楽観論ではない。
むしろ重要なのは、時間軸によって世界の見え方が変わることである。
昨日より悪化していても、50年前より改善している場合がある。世界全体では改善していても、特定の地域では悪化している場合もある。平均値が上昇していても、一部の集団が取り残されていることもある。
したがって、
「世界は良くなったか」
という問いだけでは粗すぎる。
何が、どの地域で、どの期間に、誰にとって改善したのか。
ここまで分解して初めて、統計的な問いになる。
平均値は何を隠すのか
データを使った議論で特に注意すべきなのが集計である。
たとえば国民全体の平均所得が上昇しているとしても、その利益が人口全体に均等に分配されているとは限らない。平均寿命が延びても、地域や所得階層による健康格差が縮小したとは限らない。
平均値が間違っているわけではない。問題は、平均値が答えている問いと、私たちが知りたい問いが一致しているかどうかである。
この問題は『FACTFULNESS』の議論にも接続する。同書は「先進国」と「途上国」という二分法を批判し、世界を所得水準などによってより連続的に見ることを提案する。
これは重要な修正である。巨大なカテゴリーは内部の違いを消してしまうからだ。
しかし同じ批判は、さらに細かい分類にも向けられる。
四段階に分けても、各段階の内部には巨大な差が存在する。国単位で見ても、都市と農村、富裕層と貧困層、男女、世代によって状況は異なる。
つまり分類を細かくすれば自動的に現実に近づくわけではない。
分類とは、世界を見るための道具であって、世界そのものではない。
数字が客観的でも、定義は自動的には決まらない
統計を読むうえでさらに重要なのが「何を数えているのか」である。
失業率を例にすると分かりやすい。
失業者とは誰なのか。仕事を探している人だけなのか。求職を諦めた人はどうなるのか。短時間しか働けない人は就業者なのか。
数字を計算する前に、すでに多くの定義が必要になる。
貧困も同様である。
どの所得水準を貧困と呼ぶのか。購買力をどう比較するのか。所得だけを見るのか、医療や教育へのアクセスも考えるのか。
これは「統計は恣意的だから信用できない」という意味ではない。むしろ逆で、優れた統計ほど定義が明確にされている。
重要なのは、数字を見る前にその定義を確認することである。
「貧困が減った」という文を見たら、
「ここでいう貧困とは何か」
と問い直す。
この一手間だけで、データの読み方は大きく変わる。
『ヤバい統計』が教える別の危険
ティム・ハーフォードの『ヤバい統計』は、統計を全面的に疑うのではなく、統計を正しく読むための態度を論じる本として位置づけられる。
統計には、誇張、選択的提示、不適切な比較、因果関係の混同などが入り込む。
典型的なのが相関と因果の問題である。
二つの変数が同時に動いていても、一方が他方を引き起こしているとは限らない。
たとえば、
Aをする人ほど健康である。
というデータがあったとしても、
Aをすれば健康になる。
とは直ちに結論できない。
所得、年齢、教育、生活習慣など、第三の要因が両者に影響している可能性があるからである。
この違いは単なる統計学の技術論ではない。世界を説明するときの基本的な思考法に関わっている。
観察されたパターンと、そのパターンを生み出した仕組みは別物なのである。
データは「何が起きたか」と「なぜ起きたか」を分ける
ここで、データに基づく世界認識の限界が見えてくる。
統計が強いのは、規模、頻度、分布、変化を把握することである。
どれくらい増えたのか。
どれくらい減ったのか。
どこで多いのか。
誰に多いのか。
こうした問いには統計が極めて有効である。
しかし、
なぜ増えたのか。
なぜその制度が成立したのか。
なぜ人々はその行動を選んだのか。
という問いになると、データだけでは十分ではない。
歴史、制度、文化、政治、心理などの説明が必要になる。
ここで統計的な本と、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』のような大きな歴史叙述との差も見えてくる。
『サピエンス全史』は、人間社会の巨大な変化を「認知革命」「農業革命」などの概念によって説明しようとする。それに対して統計的アプローチは、より限定された指標を使い、実際にどの程度の変化が起きたかを検証する。
前者は説明力が大きい代わりに一般化が大胆になりやすい。後者は検証しやすい代わりに、なぜその変化が生じたのかという物語を単独では提供しにくい。
両者は競合するというより、互いを監視する関係にある。
大きな物語はデータによって検証され、データは大きな物語によって意味を与えられる。
データが増えれば偏見は消えるのか
もう一つの重要な問題がある。
正確な情報を与えれば、人間の誤解はなくなるのだろうか。
必ずしもそうではない。
人間はデータを見る前から、世界について仮説や価値判断を持っている。同じ数字を見ても、何を重要だと考えるかによって解釈が変わる。
たとえば平均寿命が大幅に延びたことを「社会の進歩」と評価することは十分合理的である。しかし、所得格差が拡大していれば「社会は悪化している」と評価する人もいるかもしれない。
この二つは必ずしも矛盾しない。
健康については改善し、分配については悪化している可能性があるからだ。
ところが議論では、しばしば一つの指標を世界全体の評価に拡張してしまう。
ここで必要なのは、数字の正否だけではなく、
「この数字から、どこまで言えるのか」
という推論の範囲を確認することである。
「世界は良くなった」という命題の弱点
長期データによる楽観論への代表的な批判は、指標の選び方に向けられる。
平均寿命、識字率、乳幼児死亡などを選べば、長期的改善は強く見える。しかし生物多様性の喪失、温室効果ガスの累積、資源消費などを重視すれば、別の世界像が現れる。
だからといって、改善を示す統計が間違っているわけではない。
問題は、
「いくつかの重要な指標が改善した」
という命題と、
「世界全体が良くなった」
という命題が同じではないことである。
後者にはすでに価値判断が含まれている。
何を「良い」と考えるかを決めなければ、世界全体を一つの方向に評価することはできない。
ここには、統計では解決できない哲学的問題が残る。
データは価値判断を改善できる。しかし価値判断そのものを完全に代替することはできない。
良いデータ読解は、数字を信じることではない
統計リテラシーという言葉から、「数字に詳しくなること」を想像する人は多い。しかし実際には、計算能力以上に重要なのは問いの立て方である。
ある数字を見たとき、少なくとも次のような問いを持つ必要がある。
何を測定しているのか。
誰が対象なのか。
どの期間を比較しているのか。
平均の内部にどのような分布があるのか。
絶対数なのか割合なのか。
相関なのか因果なのか。
別の指標を使ったら結論は変わるのか。
そして最後に、
このデータから何を言えて、何をまだ言えないのか。
と考える。
この最後の問いが最も重要かもしれない。
統計を疑う人と、統計を無条件に信じる人は、一見すると正反対に見える。しかし両者には共通点がある。どちらも数字と世界の関係を十分に検討していない。
必要なのは、「数字だから正しい」という態度でも、「数字はいくらでも操作できる」という態度でもない。
データがどのように作られ、何を捉え、何を捨てているのかを見ることである。
データは世界を見る窓である
『FACTFULNESS』のような本の価値は、いくつかの意外な統計を覚えることだけにはない。
世界についての自分の直感を、外部の証拠によって修正できるという態度にある。
一方、『ヤバい統計』のような統計リテラシーの議論は、その証拠自体も無条件には受け入れられないことを教える。
この二つを組み合わせると、データに対する態度はかなり明確になる。
直感だけで世界を判断しない。
しかし数字だけで世界を判断することもしない。
データを使って認識を修正しながら、そのデータの定義、分類、測定、推論も検討する。
世界を理解するとは、正しい数字を一つ発見することではない。複数の尺度から現実を観察し、それぞれが見せるものと隠すものを理解することである。
データは世界そのものではない。
しかし、自分の思い込みの外側にある世界へ近づくための、最も重要な窓の一つなのである。