「文明化すれば不自由になる」という物語は本当か
『The Dawn of Everything: A New History of Humanity』は、人類史の新しい通史を提示するというより、私たちが「人類史には一本の道筋がある」と考えてしまうこと自体を問題にする本である。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウが攻撃するのは、狩猟採集から農耕へ、村落から都市へ、平等な小集団から階層的な国家へ、という直線的な発展図式だ。2021年に刊行された本書は、農業、都市、国家、民主主義、不平等についての通念をまとめて再検討することを掲げた。
ここで重要なのは、著者たちが単純に「昔の人間は平等だった」と主張しているのではないことである。むしろそのような楽園物語も退ける。狩猟採集民だから平等、農耕民だから階層的、都市だから国家、人口が増えれば官僚制、という対応関係そのものを疑う。
したがって本書の核心的な問いは、「不平等はいつ始まったのか」ではない。「なぜ人間は、社会制度を作り替える能力を失ったように見えるのか」である。これは歴史の起源を探す問いから、政治的可能性を問う問いへの転換である。
中心主張――人類史は一本道ではなかった
本書の中心主張を最小限にまとめれば、人間社会は従来の大きな歴史物語が想定するよりはるかに可塑的だった、ということである。
著者たちが重視するのは、社会形態の組み合わせの多様さだ。狩猟採集社会にも身分差や奴隷制を伴う場合があり、反対に大規模な人口を擁する社会でも強力な君主や中央集権国家を欠く場合があった。政治形態が季節によって変化した可能性さえ論じられる。こうした事例は、「生産様式や人口規模が一定の政治制度を自動的に生む」という説明を弱める。
著者たちにとって、この多様性は単なる例外集ではない。人間はかなり早い時代から、自分たちの社会について考え、制度を組み替え、権力を制限したり集中させたりする政治的主体だったのではないか、という推論につながる。
ここに本書最大の反転がある。従来の物語では、制度は環境、技術、人口、食料生産などの条件から生じる。本書では、それらの条件を無視はしないものの、人間自身の政治的選択が前面に出る。
根拠の強さは「反例の多さ」にある
本書の説得力は、単一の決定的証拠より、既存モデルに素直には収まらない大量の事例を並べることから生まれている。
農耕が始まってもすぐ国家が成立しなかった地域、巨大な都市でありながら王権の存在を明確に確認できない遺跡、権力構造が時期によって大きく変化した社会。こうした例を積み重ねれば、「農業→余剰→階級→国家」という単純な因果連鎖を普遍法則として維持することは難しくなる。
この意味で、本書は反証の書として強い。
一方で、「では代わりにどの理論が正しいのか」という問いにはそれほど明瞭ではない。考古学者イアン・モリスも、グレーバーとウェングロウが進化論的モデルに収まりにくい多数の事例を示していることを認めながら、それらによって既存理論がどの時点で反証されたと判断できるのか、検証可能な基準が示されていないと批判している。
本書は「歴史には法則などない」と証明したというより、「法則だと思っていたものは、かなり粗い一般化ではないか」と疑わせることに成功した、と評価する方が適切だろう。
本書の価値は「自由」の定義を変えたことにある
本書で最も重要なのは、不平等それ自体より自由を中心に置く点かもしれない。
現代社会では、自由は権利の一覧や選択肢の多さとして理解されがちである。これに対して著者たちは、人類史を通じて見られる基本的自由として、命令に従わずに済むこと、場所を離れること、社会関係そのものを再編成すること、といった能力に注目する。
その観点から見ると、所得格差が小さい社会が必ずしも自由とは限らない。反対に、一定の身分差が存在しても、それが固定化されず、人間がそこから離れたり制度を変更したりできるなら、別の意味で自由度が高い場合もある。
この視点は、「不平等の起源」という問いが隠していた問題を露出させる。重要なのは格差が存在する瞬間ではなく、格差や支配を変更できなくなる過程だからである。
前提――人間は自分の社会について考えていた
ただし、この議論には強い人間観が置かれている。
本書の人間は、環境に受動的に適応する存在ではない。制度を比較し、実験し、場合によっては意図的に拒絶する。古代人や先史時代の人々にも現代人と同程度の政治的知性があった、と考える。
この前提には大きな魅力がある。「未開社会」を文明以前の幼年期として扱わず、そこに生きた人々を政治的思考の主体として扱えるからだ。
しかし同時に危険もある。考古資料から確認できるのは建築物、埋葬、食料、道具、居住配置などであり、そこから「人々がどのような政治理念に基づいて制度を選んだのか」まで復元するには推論が必要になる。
制度の変化が意識的な政治実験だったのか、人口移動、戦争、生態条件、交易構造などの結果だったのかを区別できない場合も多い。著者たちが決定論を批判するあまり、逆方向に人間の政治的意志を強調しすぎている可能性は残る。
「先住民による啓蒙」という大胆な論点
もう一つの大きな主張が、近代ヨーロッパ思想の形成に対する北米先住民の批判的言説の影響である。
著者たちは、ヨーロッパの社会的不平等、服従、貧困、財産制度を批判した先住民の議論が大西洋を渡り、啓蒙思想が形成される知的環境の一部になったと論じる。とりわけウェンダットの政治家カンディアロンクとフランス人ラオンタンの対話として伝えられた文献が重要な位置を占める。
この論点には大きな意義がある。ヨーロッパ人だけが世界を観察し、他社会を理論化したという思想史像を反転させるからだ。植民地化された側もヨーロッパ社会を観察し、批判し、思想を生み出していた。
ただし、ここは本書でも特に論争的な部分である。残された文献はヨーロッパ人によって記録・編集されたものであり、どこまでが実際の先住民の議論で、どこからが著者側の構成なのかを完全には分離できない。後の批評でも、この史料をどこまでカンディアロンク本人の思想として扱えるかが問題とされた。
したがって「啓蒙思想は先住民から生まれた」と単純化すると、本書そのものより強すぎる主張になる。より堅実なのは、啓蒙思想を純粋なヨーロッパ内部の発明として描く従来像に、本書が重大な疑問を突きつけたと見ることである。
代表的批判――反例を集めれば一般化は崩れるのか
本書への代表的な批判は、事例選択と一般化の問題に集中する。
膨大な地域と時代を横断するため、ある遺跡について「中央集権的国家ではなかった」「集合的統治だった」とする解釈が、専門家の合意以上に確定的に描かれているのではないか、という指摘がある。クワメ・アンソニー・アッピアとの論争では、インダス文明やテオティワカンについて、専門家の見解が割れているにもかかわらず、本書が集合的・非専制的統治を強く押し出している点が問題になった。これに対しウェングロウは、本書が単純な平等社会像を作っているわけではないと反論している。
またモリスの批判はさらに方法論的である。本書は定量化をほとんど行わず、人口規模、生産力、所得や資産の偏りと政治形態の関係を体系的に比較しない。そのため、多数の興味深い反例を示せても、「物質的条件が長期的傾向を生む」という仮説そのものを退けたとは限らない。
これは重要な批判である。
「必然ではない」と「傾向すら存在しない」は別だからだ。農耕社会が必ず国家になるわけではなくても、農耕、人口密度、余剰生産、戦争などが中央集権化の確率を高める可能性はある。本書は前者を強く否定するが、後者まで十分に反証しているとは言い切れない。
それでも批判だけでは本書を処理できない
ただし、本書に「例外ばかり集めている」と反論するだけでも十分ではない。
なぜなら、従来の大きな歴史物語もまた、膨大な多様性を捨象して成立していたからである。狩猟採集、農業、都市、国家という分類そのものが複雑な現実を圧縮している。例外が多数見つかるなら、そのモデルの説明力を問い直すことには正当性がある。
実際、本書に批判的なモリスも、その学術的調査の広さと独創性を高く評価している。考古学の専門誌でも刊行後継続的に書評対象となり、2025年にも『European Journal of Archaeology』で論じられている。単なる一般向けベストセラーではなく、専門領域に論争を持ち込んだ本として位置づけられる。
本書の価値は、新しい一つの正史を完成させたことではない。従来の正史が、実際にはどれほど多くの仮定に依存していたかを可視化したことである。
『サピエンス全史』『銃・病原菌・鉄』との違い
本書は、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』やジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』と同じ「巨大な人類史」の棚に置かれやすい。実際、モリスもこれらの著作と比較してその影響力を論じている。
しかし方向はほぼ逆である。
ダイアモンドが地理・環境・利用可能な動植物などの構造的条件から歴史の長期的差を説明しようとするのに対し、グレーバーとウェングロウは、構造から政治制度を一直線に導くことを警戒する。ハラリが膨大な歴史を少数の大きな転換によって整理するのに対し、本書は、その整理からこぼれ落ちる事例を意図的に回収する。
だから三冊を読む場合、『The Dawn of Everything』を「最新版の人類史」として読むより、巨大歴史叙述そのものへの批評として読む方がよい。
説明力のためには単純化が必要なのか。それとも、その単純化によって人間の選択可能性を消してしまうのか。三冊の本当の対立は、歴史上の個別事実より、この方法論にある。
再読するときに問うべきこと
本書を再読するとき、最も重要なのは「著者たちの物語の方が正しいか」と問うことではない。
まず、ある事例が従来説への反証として提示されたとき、それは本当に理論全体を否定する反例なのか、それとも理論の許容する変異なのかを見る必要がある。
次に、人々が制度を「選んだ」と説明される場面では、考古学的証拠がどこまでその意図を支えているかを確かめたい。
そして最後に、本書自身にも同じ問いを向けるべきである。一本道の進歩史観を壊したあと、著者たちは「人間は本来、自由に制度を実験する存在だった」という別の魅力的な物語を作ってはいないだろうか。
『The Dawn of Everything』の最大の功績は、人類史の答えを与えたことではない。歴史についてもっともらしい一本の物語を聞いたとき、「なぜ他の可能性が消されているのか」と問い返す習慣を読者に与えたことである。
その疑いを本書自身にも適用できたとき、この本は初めて、単なる反進歩史観ではなく、人類史を考える方法そのものへの批評になる。