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The Sixth Extinction

The Sixth Extinctionをめぐる批評・深掘り記事。

「第六の大量絶滅」は、何を意味するのか

『The Sixth Extinction: An Unnatural History』が投げかける問いは、単に「絶滅する生物が増えているのか」ではない。より大きいのは、人類そのものが地球史を変えるほどの生物学的・地質学的な力になったのではないか、という問いである。

地球史では、通常の絶滅とは区別される五回の大規模な絶滅が論じられてきた。本書のタイトルは、現在の生物多様性の危機をその延長線上に置く。ただし、ここで注意したいのは、「第六の大量絶滅」という言葉を、すでに完了した地質学的事件の名称として読むか、現在進行する危険な軌道を示す警告として読むかで、本書への評価が変わることである。

エリザベス・コルバートの主眼は、未来の絶滅数を一点予測することではない。人間が生息地を変え、生物を世界中へ移動させ、大気と海洋の化学条件を変化させ、狩猟や採取によって特定の種に圧力を加えることで、進化の条件そのものを書き換えていることを描く。本書は2014年に刊行され、翌2015年にピューリッツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞した。

その意味で、タイトルの「絶滅」以上に重要なのは「人間が原因である」という副題の *An Unnatural History* が示す逆説である。絶滅は本来、自然史の一部である。しかし現在問題となっている変化は、自然史の内部に登場した一つの種が、自然史全体の速度と方向にまで影響し始めた現象として描かれる。

中心主張を支えるのは、一つの決定的証拠ではない

本書の特徴は、「人間が第六の大量絶滅を引き起こしている」という命題を、一つの統計やモデルだけによって証明しようとしない点にある。

コルバートは、両生類の急減、海洋酸性化、サンゴ礁、生息地の分断、外来生物や病原体の移動、過去の大型動物の絶滅など、異なる現象を横断する。パナマの両生類をめぐる取材は、本書につながった『ニューヨーカー』の記事にもさかのぼる。

重要なのは、原因が一種類ではないことである。ある種は気候変動に弱く、別の種は生息地の喪失に弱い。島嶼では人間が持ち込んだ生物が致命的になることもあり、海では二酸化炭素濃度の上昇が化学環境そのものを変える。

したがって本書が提示する構図は、「ある環境問題が大量絶滅を起こす」という単純な因果関係ではない。近代以降の人間活動が、生物が適応する速度を上回るほど速く、多方向から環境条件を変化させているという累積的な議論である。

この構成には大きな強みがある。個々の事例について不確実性が残ったとしても、それだけで全体像が崩れるわけではないからだ。一方で、この構成こそが後述する批判の入口にもなる。異質な現象を「第六の大量絶滅」という一つの物語に統合してよいのか、という問題である。

本書の価値は、危機の大きさより「時間尺度」を変えることにある

本書の優れた点は、環境問題を人間社会の短い時間尺度だけで見せないことにある。

森林の消失や種の減少を十年、百年単位で眺めれば、それは政策によって改善も悪化もする環境指標の一つに見える。しかし数百万年という進化史の尺度に置けば、一度消滅した系統は政策転換によって復元できない。

ここで絶滅は、通常の環境汚染とは異なる不可逆性を帯びる。

同時にコルバートは、科学史を物語の中に組み込む。かつて「種そのものが地球上から完全に消える」という発想は自明ではなかった。過去の大量絶滅についての理解も、化石研究や地質学の発展によって形づくられてきた。読者は現在の危機について学ぶと同時に、「絶滅」という概念を人間がどのように認識できるようになったのかを追うことになる。

そのため本書は、環境保護を訴えるだけの本ではない。人間は、自分たちが引き起こしている変化をどの時点で認識できるのか、という認識論的な問題も扱っている。

ただし、「第六の大量絶滅」という言葉には前提がある

本書を批評的に読むなら、タイトルをそのまま科学的な確定事項とみなすべきではない。

古生物学でいう大量絶滅は、通常の絶滅率上昇とは異なる規模の現象を指す。現在の絶滅速度が自然の背景絶滅率を大きく上回っているとする研究はあり、2015年には保守的な仮定を置いても近年の脊椎動物の絶滅率が背景率を上回ると論じる研究が発表された。さらに2017年には、種そのものの絶滅だけでなく、脊椎動物の個体群や分布域の大幅な縮小を重視すべきだという議論も提示された。

一方、「すでに第六の大量絶滅が始まっている」と表現してよいかについては議論が続いている。

2025年には *Trends in Ecology & Evolution* に、この呼称を批判的に検討する論文が掲載された。そこで問題とされたのは、過去の大量絶滅と同程度の種消失という定量的基準を現在がすでに満たしているわけではなく、将来への外挿には大きな仮定が含まれるという点である。これに対して別の研究者たちは、観測された絶滅だけを数えると、未記載種の消失や個体群減少、絶滅に向かう長い過程を過小評価すると反論している。

つまり、「生物多様性の危機が深刻である」という命題と、「現在が地質学的意味で第六の大量絶滅に該当する」という命題は、厳密には同一ではない。

この区別は本書を否定するためではなく、むしろ正確に評価するために重要である。

「人類」という主語は大きすぎないか

もう一つの批判は、原因を「人間」にまとめることから生じる。

地球規模で見れば、人間活動が生物圏を変えてきたという表現には意味がある。しかし政治や経済の尺度では、すべての人間が同じ程度に環境変化へ寄与してきたわけではない。

工業化した社会とそうでない社会、大量消費を行う人と最低限の資源しか利用しない人、森林を開発する企業とそこで暮らす住民を「人類」という一語でまとめれば、責任の分布が見えなくなる。

本書は地球史を扱うため、意図的に非常に大きな尺度を採用している。それは本書の力であると同時に限界でもある。

「人類は地質学的な力になった」という命題から、「誰が、どの制度を、どのように変えるべきか」という政治的命題は自動的には導かれない。本書が具体的な政策論を前面に出さないことも、この距離を大きくしている。

しかし逆に言えば、政策メニューを提示しないからこそ、本書は特定の環境政策の成否を超えて残る。対策の各論ではなく、問題を見る尺度そのものを変更する本だからである。

批判しても、中心問題は消えない

「大量絶滅」という表現が厳密かどうかを疑うことはできる。絶滅率の推計方法、未記載種の扱い、背景絶滅率、将来予測には不確実性がある。

だが、それによって「現在の生物多様性の減少は問題ではない」という結論が導かれるわけではない。

2019年のIPBES世界評価は、人間活動によって多数の動植物が絶滅の危機にさらされ、生物多様性が広範に低下していると評価した。したがって出版後の研究状況を踏まえるなら、本書の最も堅牢な部分は「地質学的に第六の大量絶滅がすでに成立した」というラベルではなく、「人間活動が異常に大きな生物学的変化を引き起こしており、その一部は不可逆的である」という診断にある。

この読み方なら、タイトルへの科学的批判と本書の価値は両立する。

むしろ興味深いのは、何%の種が消えた時点で危機と呼ぶ資格が生まれるのか、という逆向きの問いである。大量絶滅の基準に達していないことは安心材料なのか。それとも、基準に達する前だからこそ介入する意味があるのか。

本書は後者の問いへ読者を追い込む。

『沈黙の春』から『Under a White Sky』へ

環境思想史の中で読むなら、『The Sixth Extinction』はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』と比較すると位置が見えやすい。

『沈黙の春』が農薬という具体的な技術を入口に、人間による自然への介入が予期しない連鎖を生むことを示したのに対し、コルバートは対象をさらに広げる。問題になるのは特定の化学物質だけではなく、土地利用、移動、エネルギー消費、気候変動を含む文明活動そのものだからである。

また、デイヴィッド・クォメンの『The Song of the Dodo』が島嶼生物地理学や生息地の断片化を通じて絶滅を考える本だとすれば、『The Sixth Extinction』はその視野を地球史へ広げたものとして読むことができる。両書とも、種の消滅を個別の悲劇ではなく、生息域や進化史との関係から理解させる点で接続している。

さらにコルバート自身は2021年の『Under a White Sky』で、人間が引き起こした環境問題を、さらに別の人為的介入によって修復しなければならないという逆説へ進んだ。

『The Sixth Extinction』が「われわれは何を壊しているのか」を問う本だとすれば、『Under a White Sky』は「すでに改変してしまった世界で、自然に手を触れないという選択肢は残っているのか」を問う本として読める。

この二冊の間には、環境思想の難しい転換がある。自然を守ることと、自然を管理することが、もはや簡単には分離できないのである。

再読するときに問うべきこと

初読では、絶滅した種や危機に瀕した生態系の事例が強く印象に残る。しかし再読では、個々の事例よりも、それらを一つの物語へまとめる著者の方法を見るべきだろう。

なぜこの事例とこの事例を「同じ事件」の一部と呼べるのか。どこまでが観測された事実で、どこからが将来への推論なのか。「人間」という主語を、国家、産業、技術、消費者へ分解すると何が見えなくなり、何が見えるようになるのか。絶滅した種の数だけでなく、個体数や分布域、生態系機能を見るなら、危機の姿はどう変わるのか。

そして最も重要なのは、本書のタイトルを疑った後にも残る問いである。

仮に現在を「第六の大量絶滅」と呼ぶのが早すぎるとして、それは行動を遅らせる理由になるのだろうか。

『The Sixth Extinction』の価値は、読者を恐怖させることだけにはない。人間史を地球史の内部に置き直し、私たちが「自然の外から自然を利用する存在」ではなく、他の生物の進化と絶滅の条件を変更する存在になったことを認識させる点にある。

その主張をどこまで受け入れるにせよ、一度この時間尺度を獲得すると、環境問題を以前と同じ大きさでは見ることが難しくなる。それこそが、本書が出版から時間を経てもなお再読に値する最大の理由である。

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