「医学の進歩」は誰のものなのか
レベッカ・スクルートの『The Immortal Life of Henrietta Lacks』が投げかける問いは、単に「ヘンリエッタ・ラックスとは誰だったのか」ではない。より難しいのは、**ある人の身体から生まれた科学的価値を、その人自身の尊厳や権利から切り離してよいのか**という問いである。
1951年、子宮頸がんの治療を受けていたヘンリエッタ・ラックスの腫瘍組織から採取された細胞は、本人の知らないところで培養され、HeLa細胞と呼ばれる研究資源になった。ジョンズ・ホプキンス大学自身も、当時は患者の組織を研究に用いることが一般的かつ合法的だったと説明する一方、後年、家族への説明や協働という点で「もっとできたし、すべきだった」と認めている。
重要なのは、この事実を「悪い医師が患者の細胞を盗んだ」という単純な物語にしないことである。本書が描いているのは、悪意の有無とは別に、患者、研究者、病院、企業のあいだで知識と利益と発言力が著しく非対称だった社会である。
中心にあるのは「同意」よりも「非対称性」である
本書はインフォームド・コンセントについての本として紹介されることが多い。しかし、そこだけに焦点を絞ると射程を狭めてしまう。
ヘンリエッタの家族は長いあいだ、彼女の細胞が世界各地の研究室で増殖し続けていることの意味を十分には知らなかった。その一方で、研究者たちは細胞を交換し、科学的知識を蓄積し、後には企業も細胞や関連技術を利用するようになった。科学の側には専門知識、制度、資金、言語があり、家族の側にはそれらがほとんどなかった。
したがって本書の中心主張は、「同意を取るべきだった」という一点よりも広い。**科学は身体を研究対象として抽象化できるが、その抽象化の過程で身体を持っていた人間まで消してはならない**、という主張として読む方が強い。
HeLa細胞は研究対象になれば「標本」「細胞株」「試薬」として扱える。しかしそれが可能になった瞬間にも、その起点には一人の女性の病気と死があり、その後ろには家族がいた。本書は細胞の科学史とラックス家の家族史を交互に置くことで、この二つを再び接続する。
本書の根拠は、制度論だけではなく物語の配置にある
スクルートは倫理学の原理から結論を演繹するのではない。病院記録、研究史、科学者への取材、ラックス家との長期的な関係を組み合わせ、読者に複数の立場を経験させる。
この方法には大きな効果がある。HeLa細胞が医学研究に重要だったことと、その成立過程に深刻な倫理的問題があったことを、どちらか一方に回収せずに済むからだ。
実際、HeLa細胞は実験室で増殖させやすいヒト細胞として広く共有され、ウイルス、がん、遺伝学など多方面の研究に利用された。ジョンズ・ホプキンスも、ポリオやCOVID-19ワクチンを含む研究への貢献を挙げている。
だからこそ問題は厄介になる。役に立たなかった人体試料が無断利用された話なら、倫理的評価は比較的容易である。HeLaの場合、そこから莫大な公共的利益が生まれた。この成功こそが、「結果として多くの人を救ったなら、最初の不公正はどこまで許されるのか」という問いを突きつける。
本書の価値は、科学を告発することではない
本書の優れた点は、科学そのものを敵役にしないところにある。
研究者がHeLa細胞を培養し、共有し、利用したことによって生まれた科学的成果は現実に存在する。他方で、科学的成果が大きいことは、研究資源の提供者に対する扱いが正当だったことを意味しない。本書はこの二つを同時に成立させる。
この構図は現代の医学研究にも直結する。生体試料だけでなく、ゲノム情報、電子カルテ、画像、ウェアラブル端末のデータまで、個人から切り離された情報が巨大な研究資源となる時代には、「匿名化されていればよい」「法律に違反していなければよい」という線引きだけでは足りない。
とりわけゲノムの場合、本人の情報は血縁者の情報でもある。2013年には、HeLa細胞の全ゲノム配列データをめぐるプライバシー問題を受け、米国国立衛生研究所(NIH)とラックス家が、データへのアクセスを管理する仕組みについて合意した。 本書刊行後に現実の研究制度がこの問題へ追いついていったことは、その問いが過去の事件だけを扱ったものではなかったことを示している。
ただし、「ヘンリエッタの物語」を誰が所有するのか
ここで本書自身にも同じ問いが返ってくる。
スクルートは、科学者たちがヘンリエッタの細胞を研究対象にした歴史を批判的に描く。しかし彼女自身もまた、ラックス家の人生、貧困、病気、家族関係、トラウマを取材し、それを出版物へ変換する著者である。
この自己言及的な問題は消せない。実際、刊行時から、著者自身が物語の登場人物として前景化しすぎているという批判はあった。英紙『ガーディアン』の書評も、スクルートが自らを物語へ書き込みすぎることが事実的背景から読者の注意をそらすと批判している。
さらに研究者ミシェル・ギルは、ヘンリエッタの娘エルシーの描写について、人種・階級・ジェンダー・障害が交差する場面で、既存の差別的表象を再生産している可能性を論じている。
これは本書にとってかなり本質的な批判である。「語られなかった人の声を取り戻す」行為そのものが、別の語り手による代理表象だからだ。
それでも取材者を消せばよかったわけではない
もっとも、著者が完全に透明な存在として振る舞えば問題が解決するわけでもない。
スクルートと、とりわけヘンリエッタの娘デボラとの関係は、本書の情報がどのような過程で得られたのかを読者に示している。取材者の存在を消してしまえば、家族の言葉だけが自然発生的に紙面へ現れたかのような錯覚を生む。
したがって問題は「著者が登場すること」ではなく、**著者と取材対象との力関係をどこまで可視化できているか**である。本書はこの問題を完全には解決していないが、少なくとも隠してもいない。その不安定さ自体が、科学研究とノンフィクション取材に共通する倫理を考える材料になる。
人種差別だけで説明すると、逆に見えなくなるものもある
もう一つ注意すべきなのは、HeLaの歴史をすべて人種差別へ還元しないことである。
ヘンリエッタが黒人女性であり、貧困や人種的不平等が彼女と家族の経験を形作ったことは本書の重要な軸である。一方、当時の組織採取に本人の同意を求めない慣行は黒人患者だけに適用されていたわけではない。ジョンズ・ホプキンスによれば、研究者ジョージ・ゲイは人種や社会階層を問わず子宮頸がん患者の細胞を収集していた。
ここから「したがって人種は関係なかった」と結論するのも誤りだろう。問題は採取行為そのものだけではなく、誰が医療制度に対して交渉力を持ち、誰が専門家に質問でき、誰のプライバシーが尊重され、後になって誰が利益配分を求められたかという構造にある。
人種、階級、教育、医療アクセスを分解せずに全部を「人種差別」と呼べば、かえって制度が不平等を生み出す具体的な仕組みが見えなくなる。本書の強みはそれらを一つの家族の経験に集約することだが、それは同時に分析上の限界でもある。
出版後、事件は「歴史」ではなくなった
2010年の刊行後、ヘンリエッタ・ラックスの名は医学倫理を論じる際の代表的事例となった。2013年のNIHと家族の合意はその象徴である。
さらに問題は補償や商業利用へ移っていった。ラックス家の遺産管理側はHeLa細胞を利用してきた企業を相手に訴訟を起こし、2023年にはThermo Fisher Scientificと非公開条件で和解した。2026年にはNovartisとも和解が成立している。APによれば、ほかの企業を相手とする訴訟も続いている。
ここで本書の問いはさらに難しくなる。
企業が細胞を用いて利益を得たとして、利益のどこまでを元の提供者やその子孫へ返すべきなのか。数十年間に何万人もの研究者が知識を積み上げた場合、その価値を誰の貢献として計算するのか。そもそも人体由来試料に財産権を認めることは、患者を守るのか、それとも人体そのものを市場商品として扱う方向を強めるのか。
本書はこれらに最終回答を与えない。その点こそ、現在まで読まれる理由である。
『Medical Apartheid』『The Emperor of All Maladies』と読む
ハリエット・A・ワシントンの『Medical Apartheid』と並べると、本書の長所と限界がよく見える。『Medical Apartheid』がアメリカ医学における黒人への実験や搾取を長い歴史構造として捉えるのに対し、スクルートは一人の女性とその家族に焦点を絞る。前者が構造を見せ、後者が構造によって個人が何を経験するのかを見せる。
シッダールタ・ムカジーの『The Emperor of All Maladies』との対比も興味深い。ムカジーの中心には、がんという疾病と、それを理解し治療しようとしてきた医学の歴史がある。『The Immortal Life of Henrietta Lacks』では視線が反転する。医学史において「研究資源」として登場する人間の側から、科学の進歩を見るのである。
二冊を合わせて読むと、医学史を書く際に何を主語にするかが、歴史の意味そのものを変えることがわかる。
再読するときに問うべきこと
初読では「本人の知らないうちに細胞を採取された」という衝撃が強く残りやすい。再読では、そこから一段進んで読みたい。
科学研究における公正とは、事前の同意だけで成立するのか。利益配分、説明、プライバシー、意思決定への参加まで含めるべきなのか。家族には本人のゲノム情報についてどこまで権利があるのか。そして、忘れられていた人物を「語る」ことと、その人物を再び誰かの目的のために利用することの境界はどこにあるのか。
『The Immortal Life of Henrietta Lacks』の重要性は、ヘンリエッタを医学史の脚注から救い出したことだけにはない。むしろ、**医学が人間の身体を知識へ変換するとき、その知識の中に人間をどう残すのか**という問題を読者の側へ返したことにある。
HeLa細胞が「不死」であるという題名の逆説もそこにある。細胞は残り続ける。しかし、細胞だけが残れば人間は忘れられる。本書が問うのは、科学が記憶すべきなのは成果だけなのか、それとも成果が生まれた人間関係までなのか、ということなのである。