「制度が発展を左右する」とは何を意味するのか
「制度は長期的な経済発展を左右する」という主張は、単に「良い法律を作れば豊かになる」という意味ではない。ここでいう制度とは、所有権、契約執行、徴税、官僚制、政治参加、権力者への制約、市場参入の条件など、人々が経済活動を行う際の誘因と制約を形づくる仕組みの総体を指す。重要なのは、制度を政策そのものと区別することだ。法人税率を一度下げるのは政策だが、政権交代後も恣意的な没収が起きにくい、裁判所が契約を執行する、行政が継続的に税を徴収できる、といった予測可能性は制度に近い。
また、この主張は「制度だけが成長を決める」という命題でもない。地理、資源、人口構成、教育、技術、文化、国際環境は当然重要である。問われているのは、それらの条件が同じではない世界で、なぜ一部の社会が投資と革新を持続させ、別の社会では富や権力が狭い集団に集中したままになるのか、その差を制度がどこまで説明できるかである。
著者側の論拠は「誘因」と「権力」にある
制度重視論の中心的な論理は明快である。将来の利益を自分が受け取れると期待できれば、人は設備、教育、新技術に投資しやすい。反対に、成功すれば財産を没収される、政治的コネを持つ企業だけが参入できる、契約が執行されない、という環境では、長期投資より短期的な利益確保や権力者との関係づくりが合理的になる。
アセモグル、ジョンソン、ロビンソンの研究では、この経済制度の背後に政治的権力の配分が置かれる。制度は社会全体の効率だけで選ばれるのではなく、既得権を持つ集団が自らに有利な仕組みを維持しようとする。そのため、生産性を高める改革であっても、既存エリートの地位を脅かすなら阻止されうる。ここで制度論は単なる「法整備論」ではなく、誰がルールを決め、その利益と損失を誰が負うのかという政治経済学になる。
この枠組みの強みは、非効率な制度が長く存続する理由を説明できる点にある。社会全体の所得を増やす制度が自動的に採用されるなら、貧しい国は成功国の制度を模倣すればよい。しかし現実には、改革によって失うものが大きい集団ほど政治的影響力を持つ場合がある。したがって「非効率だから消える」という進化論的な期待だけでは不十分だ、というのが制度論の核心である。
有名な実証は何を示したのか
この主張を世界的な論争にした代表的研究が、植民地経験を利用した比較である。アセモグル、ジョンソン、ロビンソンは、ヨーロッパ人入植者の死亡率が高かった地域では定住型植民より収奪型の統治が採用されやすく、その制度的遺産が後世の所有権保護や所得水準に影響したという識別戦略を提示した。彼らの推定では、制度の差が現代の所得格差を説明するうえで大きな役割を持つとされた。
さらに「運命の逆転」と呼ばれる議論では、1500年頃に人口密度や都市化が高かった植民地域の一部が、その後は相対的に低所得になったことが示された。もし気候や土壌など変化しにくい地理条件が長期所得をほぼ決めるなら、豊かな地域の順位はもっと持続するはずである。植民地化を境に順位が反転したことは、制度変化を重視する説明と整合的だとされた。
ただし、ここで重要なのは「相関が見つかった」ことより、因果関係をどう識別したかである。豊かな国ほど後から制度を改善できるため、現在の制度と所得を比較するだけでは、制度が豊かさを生んだのか、豊かさが制度を改善したのか分からない。植民地死亡率の研究は、この逆因果を避けるための操作変数を導入した点に大きな意義があった。
支持は植民地間比較だけではない
制度の長期効果を支持する研究は、その後、国家間比較より細かな地域差にも広がった。たとえばペルーの植民地期の鉱山労働制度「ミタ」を扱ったメリッサ・デルの研究は、歴史的な制度の境界付近を比較し、強制労働制度を経験した地域で後世の消費や公共財、市場統合に持続的な差が残ったことを示した。国家全体を比較するより地理的に近い地域を比べられるため、「制度以外の国ごとの差」の影響を減らそうとする設計である。
また、アフリカ研究では植民地以前の政治的中央集権化や、植民地統治、奴隷貿易、国境分割などの歴史的経験が、現代の開発指標や社会的信頼と結びつくという研究が蓄積している。もっとも、経路は一様ではなく、政治制度そのものだけでなく、教育、インフラ、国家能力、民族間関係など複数の媒介経路が想定されている。近年の研究史を整理したレビューも、この多経路性を強調している。
最大の批判は「制度を測れているのか」である
制度論への強い批判の一つは、制度指標そのものに向けられた。グレイザーらは、しばしば使われる制度指標が恒久的な政治ルールではなく、政府の政策成果や投資家の主観的評価を含むため、制度の因果効果を測る変数として不適切な場合があると論じた。そして教育などの人的資本が成長を促し、その結果として制度も改善するという逆方向の説明を重視した。
この批判は重要である。「法の支配」「政府の質」「収用リスク」といった指標は互いに似て見えても、憲法上の制約、行政能力、汚職の少なさ、企業から見た予測可能性は別概念である。それらを一括して「制度」と呼べば、何が成長に効いたのか分からなくなる。制度論が強力であるほど、その概念を広げすぎる誘惑が生じる。「成長に有利な社会的仕組み」をすべて制度と呼べば、制度が成長を説明するという主張は反証不能に近づいてしまう。
操作変数にも反証可能性がある
植民地死亡率を使った研究にも、データの構築と識別仮定への批判がある。アルブイは、元の標本では多数の国に他地域の死亡率が割り当てられていることや、史料の扱いに問題があると指摘し、データ修正によって推定結果の頑健性が弱まると主張した。 これに対してアセモグルらは、外れ値や分類を修正しても主要な結果は維持されると反論している。
ここで決着したのは「どちらが完全に正しいか」ではない。むしろ、歴史的な自然実験を使う研究では、操作変数が所得へ影響する経路が制度だけであるという排除制約をどこまで信じられるかが常に問題になる。疾病環境は、入植政策だけでなく、現在まで続く健康、生産性、人口構成に直接影響した可能性もある。したがって、有名な一つの推定値をそのまま「制度の効果」と読むのは危険である。
地理・文化・人的資本との対立は単純ではない
制度論はしばしば地理説や文化説の反対側に置かれるが、現在の研究を理解するには、この二者択一を避けた方がよい。地理条件は農業生産性、疾病、交易費用、国家形成を通じて制度そのものに影響しうる。教育水準の高い社会では行政能力や政治参加が高まり、それが制度を改善する可能性がある。一方で、教育への投資が報われるかどうかも所有権や雇用市場の制度に左右される。原因は一方向ではなく、相互強化的でありうる。
同じことは国家能力にも当てはまる。財産権を守るだけの「弱い政府」が理想なのではない。徴税し、治安を維持し、裁判を運営し、インフラや教育を供給するには、実行能力を持つ国家が必要になる。ベスレーとパーソンらの研究系列は、法的能力と財政能力への投資が長期的発展と結びつく枠組みを提示してきた。 したがって制度の質は、「政府を小さくするか大きくするか」ではなく、権力を制約しながら公共的な能力を構築できるかという問題に近い。
適用範囲は「成長率」より「持続可能性」にある
この命題を検討するとき、短期の成長率と長期の発展水準を区別する必要がある。権力が集中した体制でも、農村から都市への労働移動、既存技術の導入、高い貯蓄率、大規模なインフラ投資によって、長い期間にわたり急成長することは理論上も経験上もありうる。したがって、ある国が高成長しているという事実だけで制度論が反証されたとは言えない。
制度論がより強く予測するのは、成長の果実が新規参入者にも開かれているか、技術変化によって既存企業や政治エリートが脅かされたときにも革新を許容できるか、危機や政権交代の際にも財産権や行政能力が維持されるか、といった持続性である。逆に、包摂的と呼べる制度を持つ国が毎年高成長するとも限らない。成熟国では人口動態や技術フロンティアへの接近によって成長率が低下しうるからだ。制度は年次成長率を直接予言する変数というより、投資・革新・再配分が長期にわたり繰り返される条件を説明する概念として読む方が適切である。
もう一つの限界は、制度改革の処方箋が自動的には導けないことだ。制度が権力配分の結果なら、「良い制度を導入せよ」という助言は循環的になる。改革で利益を失う集団が拒否権を持つ場合、法文だけを輸入しても運用は変わらない。したがって制度論の実践的課題は、望ましい制度の一覧を作ることではなく、制度を支える政治連合、行政能力、信頼、執行の仕組みがどのように形成されるかを説明することにある。
どこまで強い主張として受け入れられているか
研究上、制度が長期的繁栄に重要だという考え自体は、もはや周辺的な仮説ではない。2024年の経済学賞がアセモグル、ジョンソン、ロビンソンの「制度がどのように形成され、繁栄に影響するか」の研究に授与されたことは、その学術的影響の大きさを示している。 しかし、受賞は「制度が唯一の根本原因である」ことや、初期の実証戦略のすべてが確定したことを意味しない。
現在より妥当なのは、制度を必要条件や単独原因としてではなく、長期発展の主要な媒介変数の一つとして捉える立場である。所有権の安定、権力の制約、参入機会、国家能力が投資・革新・人的資本形成を左右するというメカニズムには強い説得力がある。一方で、どの制度がどの段階の発展に重要なのか、民主主義的制度と経済制度をどこまで区別すべきか、文化や地理との因果の向きをどう識別するかには未解決の余地が大きい。
したがって「制度は長期的な経済発展を左右する」という命題は、制度万能論として読むと弱くなる。むしろ価値があるのは、貧困を資源不足や国民性だけで説明せず、「誰がルールを決め、誰が利益を得て、なぜ非効率な仕組みが持続するのか」と問い直した点にある。制度は経済成長の魔法のスイッチではない。しかし、技術、教育、資本、地理が経済的成果へ変換される経路を形づくる装置だと考えるなら、この主張はなお強い説明力を持っている。