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book / Sapiens: A Brief History of Humankind

サピエンス全史

人類史を、想像上の秩序と協力の能力から捉え直す一般向け知的ノンフィクション。

この本が本当に問うているもの

『サピエンス全史』を、人類史を一冊で説明した本として読むだけでは、その知的な魅力も危うさも見えにくい。本書が投げかけている中心的な問いは、むしろ「なぜホモ・サピエンスだけが、これほど巨大な社会を形成できたのか」である。

人間は最速の動物でも、最も強い動物でもない。個体の能力だけを見れば、地球全体を支配するような存在になる必然性はない。それにもかかわらず、国家をつくり、市場をつくり、宗教を共有し、見知らぬ何百万人もの人間と協力できる。ユヴァル・ノア・ハラリが注目するのは、この大規模協力を可能にする人間特有の能力である。

そこで重要になるのが、神話、宗教、国家、貨幣、企業、法、人権といった、物理的な対象としてそのまま存在しているわけではない秩序である。人間は共通の物語を信じることで、血縁や直接的な知り合いを越えて協力できる。本書の刺激的な点は、文明史を技術進歩の歴史としてではなく、「共同で信じられる虚構を作る能力の歴史」として読み替えたことにある。

この視点を受け入れるなら、歴史を見る目は大きく変わる。問われるのは、ある制度が自然か人工かではない。なぜそれほど多くの人がその制度を現実として扱い、行動を合わせられるのか、という問題になる。

中心主張の強さは、証明よりも接続にある

本書では、認知革命、農業革命、人類社会の統合、科学革命という巨大な枠組みが提示される。しかし個々の出来事そのものより重要なのは、それらが一つの説明原理によって接続されていることである。

サピエンスが抽象的な物語を共有できるようになった。多数の人間が協力できるようになった。農業や国家が人口と組織を拡大させた。貨幣や宗教や帝国が異なる集団を結びつけた。近代になると科学と資本主義が未来への投資を可能にし、人間の能力そのものを急速に拡張した――本書は、おおむねこのような方向に人類史を配置する。

ここで注意したいのは、これが数学の定理のように一つずつ証明される理論ではないということである。考古学、進化論、経済史、宗教史、政治史など非常に異なる領域の研究をつなぎ、人類史を理解するための巨大なモデルを提示している。

したがって本書の説得力も、個々の命題が完全に確定していることから生まれているわけではない。「認知革命」がいつ、どのような仕組みで起きたのかには議論があり、先史時代の人間社会について利用できる証拠にも限界がある。狩猟採集社会の生活を幸福だった、あるいは比較的平等だったと評価するときも、限られた資料からの推論が含まれる。

それでも読者が強い説得力を感じるのは、断片的だった知識が一つの構図の中に配置されるからだ。本書の最大の能力は、個別研究の精密さというより、異なる研究分野を横断して問いを作ることにある。

「農業革命は罠だった」という挑発

本書を象徴する議論の一つが、農業革命を単純な進歩として扱わないことである。

農耕によって人口は増え、都市や国家や文明が成立した。しかし、それが個々の人間の生活を必ず改善したとは限らない。労働時間、食生活、感染症、身分格差などを考えれば、人口や社会全体の拡大と個人の幸福は別問題である。

ここには重要な問題提起がある。

私たちは歴史を、人口増加、GDP、技術力、国家規模などの拡大によって「発展」と呼びやすい。しかし、何かが増えたという事実と、それによって人間が幸福になったという評価は同じではない。

この区別は、本書全体を貫く。

帝国は巨大な文化圏を形成した。貨幣は世界規模の交換を可能にした。科学は寿命や生産力を劇的に変えた。しかし「人類が強くなった」ことから「人間が幸福になった」ことは導けない。

『サピエンス全史』の歴史観が単なる進歩史観と異なるのは、この断絶を繰り返し指摘するからである。

一方、「農業は史上最大級の詐欺だった」といった挑発的な表現を、そのまま歴史学上の確定した結論と受け取るべきではない。農業化は地域ごとに異なる長期的過程であり、人々の生活条件も一様ではなかった。ここでは断定の正確さより、文明の成功を誰の尺度で測るのかという問いの方が重要なのである。

「虚構」という概念はどこまで有効か

本書でもっとも広く知られ、同時にもっとも慎重に扱う必要があるのが「虚構」の議論だろう。

企業も国家も貨幣も、人間の共同了解なしには機能しない。この点を指摘することで、ハラリは制度を自然物のように考える習慣を崩す。

たとえば貨幣には、食物のような直接的効用があるわけではない。それでも社会の人々が価値を認めるため、交換手段として機能する。国家の国境も、山や海と違って、それ自体が自然界に刻まれているとは限らない。それでも人間が制度として認めることで巨大な現実的効果を持つ。

この分析は強力である。

しかし、「共同主観的に成立している」ということと、「根拠のない作り話である」ということを混同すると問題が起きる。

株式会社、人権、法律、通貨制度は、人間が作った制度であるという意味では自然物ではない。しかし、それぞれが同じ意味で「虚構」なのではない。制度には成立過程があり、強制力があり、道徳的正当化があり、機能の違いがある。

特に人権を神話や企業法人と同じカテゴリーに置いたとき、「人権は自然界に存在しない」という記述的主張から、「だから人権には根拠がない」という規範的主張へ移ってしまう危険がある。本書自身が単純にその結論を採用しているとは言えないが、読者が両者を区別する必要はある。

社会的に構築されたものは、無意味なものではない。この一点を忘れると、本書の鮮やかな概念整理が、かえって社会制度の複雑さを隠してしまう。

最大の価値と最大の弱点は同じ場所にある

『サピエンス全史』への代表的な批判は、その巨大な一般化に向けられてきた。

何万年にも及ぶ人類史を一つの物語として描く以上、地域差、時代差、研究上の論争は圧縮される。狩猟採集民の生活、認知能力の発達、農耕社会の変化、帝国の役割、資本主義と科学の関係などについて、専門研究ではより複雑な議論が存在する。

また、一つの魅力的な説明を提示することで、それと競合する説明が見えなくなることもある。

しかし、この批判には反論も可能である。

世界史的な総合を試みる本に、専門的モノグラフと同じ密度の証明を求めれば、そもそも巨大な問いを立てることが不可能になる。細部を捨てなければ見えないパターンも存在するからだ。

問題は一般化そのものではない。一般化された仮説と、十分に確立された事実を区別できるかどうかである。

この意味で、本書の弱点は価値の裏返しになっている。何百もの限定条件を付ければ学術的には慎重になるが、『サピエンス全史』という作品の知的な推進力は失われるだろう。

読者に必要なのは、すべてを信じることでも、誇張を見つけて全体を退けることでもない。「この説明はどの範囲まで有効なのか」と問いながら読むことである。

『銃・病原菌・鉄』から『万物の黎明』へ

本書の位置を理解するには、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』との比較が有効である。

ダイアモンドが、人間集団の能力差ではなく、地理、栽培可能植物、家畜化可能動物、病原菌などの条件から文明間の格差を説明しようとしたのに対し、ハラリはより強く、人間が共有する物語と制度に焦点を当てる。

両者には、人類史を巨大なスケールで説明しようとする共通点がある。そして同時に、巨大な説明ほど個々の社会の多様性を押しつぶす危険があるという批判も共有する。

別方向の対照として重要なのが、デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』である。同書は、狩猟採集から農業、都市、国家へという単純な一本道の発展モデルそのものを疑い、先史社会には従来考えられていた以上に多様な政治的・社会的実験が存在したと論じる。

この対比から見えてくるのは、人類史について巨大な物語を書くこと自体が一つの思想的選択だということである。

どの事実を取り上げ、何を転換点とし、何を人類史の主要因とするかによって、まったく異なる世界史が成立する。

出版後も残ったのは「答え」より「問い」である

『サピエンス全史』は、専門家だけを対象とした歴史研究ではなく、一般読者が人類史そのものを考え直すための大規模な知的モデルとして広く読まれた。その成功によって、ビッグヒストリー的な視点や、文明を数千年・数万年単位で考える議論を一般読者に身近なものにした意義は大きい。

一方、広く読まれたからこそ、その断定的な文章が専門研究上の合意であるかのように受け取られる危険も増した。

現在この本を読む価値は、「最新の人類史の標準答案」を得ることにはない。

むしろ逆である。

巨大な歴史説明がどのように作られるのかを観察する本として読むと面白い。

人類史の主人公を遺伝子に置くのか、環境に置くのか、制度に置くのか、物語に置くのか。人口増加を成功とするのか、個人の幸福を成功とするのか。文明を進歩として描くのか、代償を伴う拡張として描くのか。

こうした選択によって、同じ歴史的事実から異なる人類史が生まれる。

再読するときに問いたいこと

初読では、壮大な物語そのものに圧倒されやすい。再読では、むしろその物語を分解して読む方がよい。

ある主張について、「これは確認された事実なのか、妥当性の高い推論なのか、それとも著者の解釈なのか」と問い直してみる。

さらに、「別の尺度を採用したら、この歴史はどう見えるか」と考える。

国家の規模ではなく自由を尺度にしたらどうなるか。人口ではなく健康を見たらどうなるか。経済成長ではなく格差を見たらどうなるか。人類全体ではなく、特定の階級、性別、地域から歴史を見たらどうなるか。

そして最も重要なのは、本書自身が多用する「物語」という概念を、本書にも適用することだろう。

『サピエンス全史』もまた、無数の歴史的事実を選択し、因果関係を与え、始まりと転換点を設定することで成立した一つの巨大な物語である。

だからといって、それが価値を失うわけではない。

むしろ、そのことを理解したところから、この本の本当の批評的読解が始まる。問うべきなのは「ハラリは正しいか、間違っているか」だけではない。

**なぜこの物語は、これほど人類史を説明しているように感じられるのか。**

その説得力が、証拠から来ているのか、説明の単純さから来ているのか、それとも私たち自身が世界を一つの物語として理解したがっているからなのか。そこまで問い返したとき、『サピエンス全史』は人類史の解説書から、人間が歴史を理解する方法そのものを考えるための本へと変わる。

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