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制度

制度をめぐる批評・深掘り記事。

制度とは何か

「制度」という言葉は、政治や経済を論じる際に頻繁に使われる。しかし、その意味は著者によってかなり異なる。法律や行政組織のような明文化された仕組みを指す場合もあれば、慣習、社会規範、所有権、企業統治、選挙制度まで含める場合もある。

制度論の重要な問いは、「人々がどのような人間であるか」だけでは説明できない社会の差を、どのように理解するかという点にある。同じような技術を利用でき、似た資源を持つ社会でも、経済成長、政治的安定、腐敗、公共財の管理には大きな違いが生じる。その差を、人々が行動する際のルールやインセンティブの違いから説明しようとするのが制度論の基本的な発想である。

ただし、「制度が重要だ」という命題は、それだけではほとんど何も説明していない。どの制度が、どの経路を通じて、誰の行動を変えるのかまで示さなければ、制度という言葉は万能の説明概念になってしまう。

ノース――制度は「ゲームのルール」である

制度を現代の経済学で中心的な分析対象にした代表的人物の一人がダグラス・ノースである。『制度・制度変化・経済成果』などでノースは、制度を社会における「ゲームのルール」として捉えた。

この定義の特徴は、制度と組織を区別することにある。法律、契約、所有権、慣習といった制度のもとで、企業、政府、政党などの組織が活動する。スポーツにたとえるなら、制度は競技規則であり、組織はその規則のもとで勝利を目指すチームである。

この視点では、経済発展に重要なのは資本や技術だけではない。財産を奪われる可能性が高い社会では、将来の利益を期待した投資は行われにくい。契約が履行される見込みが低ければ、知らない相手との取引には大きな費用がかかる。制度はこうした不確実性や取引費用を変えることで、人々の選択に影響する。

しかしノースの制度論は、「良い法律を作れば成長する」という単純な改革論ではない。制度には歴史的な持続性があり、既存制度によって利益を得る集団も存在する。効率の悪い制度であっても、それが長期間存続することは十分にありうる。

ここから、制度を設計図のように自由に交換できるものではなく、歴史的経路のなかで形成されるものとして理解する視点が生まれる。

アセモグルとロビンソン――誰に利益を配る制度なのか

ダロン・アセモグルとジェイムズ・ロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』では、制度論はより明確に権力の問題へ向かう。

彼らは経済制度と政治制度について、広く人々に参加機会や利益を与える「包括的」な制度と、一部の支配集団が多数から富を吸い上げる「収奪的」な制度を対比する。

この議論の強みは、非効率な制度が存続する理由を政治的利益から説明できる点にある。

社会全体の所得を増加させる改革が存在したとしても、それによって支配者が政治的地位を失うなら、支配者が改革を拒否することはありうる。技術革新も同様である。新技術が社会を豊かにしても、それによって既存の産業や政治権力が脅かされるなら、権力者には技術を抑制する動機が生じる。

つまり問題は、「どの制度が効率的か」だけではない。

**誰が制度を決められるのか。**

制度を選択する権力そのものが分析対象になる。

もっとも、包括的/収奪的という二分法には注意も必要である。実際の国家には両方の特徴が混在する。民主的な選挙制度を持ちながら市場参入が制限される社会もあれば、政治的自由が限定されながら急速な経済成長を経験する社会もある。

したがって、この区分をすべての国家を二種類に分類するラベルとして使うと説明力を失う。重要なのは、具体的な権力配置とインセンティブを分析することである。

オストロム――国家か市場かという二択を崩す

制度論の別の方向を示したのがエリノア・オストロムである。

『コモンズのガバナンス』で扱われるのは、森林、漁場、灌漑設備など、多数の利用者が共有する資源である。

共有資源については、「自由に利用させれば乱獲されるため、私有化するか政府が管理するしかない」という議論が強かった。オストロムは、多様な地域の事例を調査し、利用者自身がルールを形成しながら資源を長期的に管理しているケースが存在することを示した。

ここで制度は、国家が上から制定する法律だけではない。

誰が資源を利用できるのか。どの程度利用できるのか。違反をどのように監視するのか。紛争をどう解決するのか。ルールを変更する際に利用者が参加できるのか。

こうした細かな規則の組み合わせが制度になる。

ノースが制度を広い意味でのルールとして捉え、アセモグルとロビンソンが制度と政治権力の関係を強調したのに対し、オストロムは制度が地域社会の内部から形成される可能性に注目したといえる。

この違いは重要である。「国家対市場」という対立だけでは捉えられない制度が存在するからだ。

制度と文化は対立するのか

社会の違いを説明するとき、制度と競合する概念の一つが文化である。

たとえば、ある社会で企業への信頼が高く、別の社会では低いとする。その原因は、契約を強制できる法制度にあるのか。それとも長期的に形成された社会的信頼や価値観にあるのか。

実際には両者を完全に切り離すことは難しい。

信頼が高い社会では、それを前提とした制度が成立しやすい。一方で、予測可能な法制度が長期間続けば、知らない相手とも取引できるという経験が積み重なり、社会的信頼の形成に影響する可能性がある。

制度論が強すぎると、文化、地理、技術、人口構成、国際環境などが軽視される。逆に文化論が強すぎれば、「この国の人々はそういう文化だから」という循環論法に陥りやすい。

どちらか一方だけを原因と決めるより、相互作用を問う必要がある。

良い制度を輸入すればよいのか

制度論から容易に導かれそうで、実際には危険なのが「成功国の制度を導入すればよい」という発想である。

たとえば、ある国で機能している司法制度、企業統治制度、地方自治制度を別の国へ移植したとしても、同じ結果が得られるとは限らない。

制度は単独で存在しないからだ。

法律だけを導入しても、それを執行する行政能力がなければ機能しない。汚職を禁止しても、違反を監視する機関そのものが政治的に支配されていれば効果は限定される。形式上の選挙制度が存在しても、情報へのアクセスや司法の独立が弱ければ、政治的競争の意味は変わる。

この問題は「形式的制度」と「実際に運用されている制度」の違いとして捉えることもできる。

制度を評価するときには、法律の条文だけでなく、人々が実際にどのように行動しているかを見る必要がある。

制度は誰にとって「良い」のか

さらに重要なのが、良い制度という言葉の曖昧さである。

経済成長率を高める制度と、所得分配を平等にする制度は必ずしも一致しない。新規企業の参入を容易にする制度は消費者には利益をもたらすかもしれないが、既存企業や労働者には損失を与える可能性がある。

環境規制を弱めれば短期的な投資は増えるかもしれない。しかし環境被害が拡大すれば、その費用を別の人々が負担する。

したがって制度の評価には、少なくとも二種類の問いが存在する。

一つは、**その制度がどのような結果を生むのか**という因果の問いである。

もう一つは、**その結果を望ましいと判断する基準は何か**という規範の問いである。

制度論は前者を分析する強力な道具だが、後者まで自動的に答えてくれるわけではない。

AI時代の制度問題

現代のデジタル社会でも、制度という視点は有効である。

AIについて「技術が雇用を奪う」「AIが格差を拡大する」と語るだけでは不十分である。同じ技術でも、その利益がどこへ配分されるかは制度によって変わる。

AIによって生産性が上昇したとき、その利益は企業の所有者に集中するのか。労働時間の短縮につながるのか。賃金に反映されるのか。新規企業が参入できるのか。データや計算資源を少数企業が独占するのか。

これらは技術そのものだけからは決まらない。

さらに、プラットフォーム企業が巨大化した社会では、制度を作る側と制度に従う側の境界も曖昧になる。政府が制定する法律とは別に、企業が利用規約、推薦アルゴリズム、アカウント停止基準などを設定し、事実上のルール形成者になるからである。

制度論はここでも、「技術は何ができるか」から「誰がルールを決め、その結果誰が利益と負担を引き受けるのか」へ問いを移す。

制度を説明の終点にしない

ノース、アセモグルとロビンソン、オストロムに共通するのは、人々の行動が個人の性格だけで決まるのではなく、行動を取り囲むルールによって大きく変わるという認識である。

しかし制度は、それ自体が最終原因ではない。

「この国が発展したのは良い制度があったからだ」と言うだけなら、「発展した国には発展を促す制度があった」と言い換えているだけかもしれない。

問うべきなのは、その先である。

なぜその制度が成立したのか。誰が維持しているのか。誰が利益を受け、誰が費用を負担するのか。なぜ別の制度へ変更できないのか。そして制度と文化、技術、地理、権力はどのように影響し合っているのか。

制度という概念の価値は、あらゆる社会現象を一語で説明できることにあるのではない。むしろ、個人の善悪や国民性だけでは見えにくい「行動を形づくるルール」と「そのルールを作る権力」を、具体的な分析対象にできることにある。

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