格差とは何を指すのか
「格差」は、社会のなかで所得、資産、教育、健康、機会、政治的影響力などが均等に分布していない状態を指す。しかし、単に人々のあいだに差が存在することと、その差が社会問題としての「格差」になることは同じではない。
年齢によって所得が違うこと、職業によって賃金が違うこと、あるいは能力や選好によって結果が異なること自体は、ただちに不公正を意味しない。格差論が問題にするのは、多くの場合、その差がどのように生じ、どの程度固定され、本人の選択によって変えられるのか、さらに社会全体にどのような影響を及ぼすのかである。
したがって、「格差が大きい」という記述だけでは議論は完結しない。何の格差なのか、誰と誰を比較しているのか、結果と機会のどちらを問題にしているのかを区別する必要がある。
ピケティ――所得よりも資産を見る
トマ・ピケティの『21世紀の資本』が格差論に与えた大きな影響は、所得だけでなく資産の集中を長期的な歴史のなかで捉えたことにある。
給与所得だけを見れば、高所得者と低所得者の差として格差を理解しやすい。しかし資産には、株式、不動産、事業所有などが含まれ、それらは収益を生み、さらに相続される。ピケティは、こうした資本所有の偏りが世代を越えて蓄積されうることに注目した。
彼の議論で有名なのが、資本収益率が経済成長率を上回る状況を示す「r > g」である。ただし、これはいつでも格差が自動的に拡大するという自然法則ではない。税制、戦争、インフレ、経済成長、貯蓄行動、制度設計などによって結果は変わる。
重要なのは、格差を「ある時点での所得差」ではなく、所有構造が長期的に再生産される問題として捉えた点である。
一方で、資本の定義を広く取りすぎているという批判や、資産価格の上昇と生産的資本の増加をどのように区別するかという論点もある。ピケティの枠組みは格差の一つの重要な側面を説明するが、それだけで格差全体を説明するわけではない。
セン――「何を持つか」だけでは不十分である
アマルティア・センは、所得や財の量だけで人々の豊かさを比較することに疑問を投げかけた。
同じ所得を持っていても、その所得によって実際に実現できる生活は異なる。健康状態、障害、年齢、居住地域、公共サービス、社会的差別などによって、同じ資源を持つ人でも選択可能な生活の幅は変わる。
センのケイパビリティ・アプローチでは、重要なのは財そのものよりも、「その人が何をなし得るか、どのような状態になり得るか」である。
この考え方を採用すると、所得格差が小さい社会でも重大な格差が存在しうる。たとえば教育や医療へのアクセスが一部の人に限られているなら、表面的な所得差だけでは不平等の実態を捉えられない。
反対に、所得差が存在していても、十分な公共サービスによって基本的な能力が広く保障されているなら、その社会の不平等は所得統計から受ける印象とは異なるかもしれない。
格差とは「持っている量」だけではなく、「実際に可能なことの差」でもある。
ロールズ――格差そのものではなく制度を問う
ジョン・ロールズの『正義論』は、すべての格差を否定する立場ではない。
彼の議論で重要なのが「格差原理」である。社会的・経済的不平等が認められるとしても、それが最も不利な立場にある人々の利益にもなるよう制度が設計されるべきだと考える。
この立場では、所得が完全に均等であることは正義の必要条件ではない。たとえば医師や技術者に高い報酬を与えることで人材育成や社会的供給が進み、その結果として最も不利な人々の生活も改善するなら、一定の所得差には正当化の余地がある。
ここでは、「格差があるか」より「その格差を生む制度を、誰の立場から正当化できるか」が問題になる。
この点でロールズは、格差を単なる統計量から政治哲学の問題へ移す。ジニ係数が同じ二つの社会であっても、その格差が世襲的特権によって生じているのか、広い機会の平等を前提とした制度から生じているのかでは、規範的評価が異なりうる。
ミラノヴィッチ――国内格差と世界格差は同じではない
ブランコ・ミラノヴィッチは、格差を国家の内部だけでなく世界規模で考える。
グローバル化の進行によって、一部の新興国では大規模な所得上昇が起こった一方、先進国の内部では所得分布をめぐる政治的緊張が強まることがある。このとき、世界全体の国家間格差が縮小することと、ある国の国内格差が拡大することは同時に起こりうる。
この区別は重要である。
「グローバル化は格差を拡大した」という主張も、「グローバル化は格差を縮小した」という主張も、比較対象を明示しなければ意味が曖昧になる。先進国内の労働者間格差を問題にしているのか、世界人口全体の所得差を問題にしているのかによって結論が変わるからだ。
格差について議論するとき、分析単位を曖昧にすると、互いに異なる現象について議論しながら対立しているように見えることがある。
ウィルキンソンとピケット――格差は社会全体を悪化させるのか
リチャード・ウィルキンソンとケイト・ピケットの『平等社会』は、所得格差の大きな社会ほど、健康、犯罪、社会的信頼など複数の社会指標で問題が大きくなるという議論を広く知らしめた。
この議論の特徴は、格差を貧困層だけの問題として扱わないことである。所得分布の大きな隔たりそのものが、地位競争、不安、社会的不信などを通じて社会全体に影響する可能性を考える。
もしこの主張が正しいなら、「最低所得さえ十分なら富裕層がいくら豊かになっても問題はない」という考え方は成立しにくくなる。
しかし、この種の国際比較には強い批判もある。相関関係から因果関係をどこまで推定できるのか、対象国の選び方や他の制度的要因をどう扱うのかという問題がある。福祉制度、文化、教育、治安、民族構成など、格差と社会問題の双方に影響する変数は多い。
したがって、「格差があらゆる社会問題を引き起こす」と一般化するのは慎重であるべきだろう。
結果の格差と機会の格差
格差をめぐる政治的議論では、「結果の平等」と「機会の平等」がしばしば対立概念として用いられる。
結果の完全な平等を目指せば、努力や選択の違いまで消してしまうという批判が生じる。一方で、機会だけ平等なら結果の格差は問題ない、と単純に考えることも難しい。
なぜなら、結果の格差が次世代の機会の格差を生むからである。
高所得の家庭ほど教育、居住地、人的ネットワークなどに多くの資源を投入できるなら、親世代の「結果」は子世代の「機会」に変換される。さらに資産相続まで考えれば、両者を完全に切り離すことはできない。
ここに格差問題の循環的性質がある。
機会の平等を重視する立場であっても、結果の格差が極端に大きくなれば、その格差が次世代の機会を左右しないための制度が必要になる。
格差と貧困は別の問題である
格差と貧困も区別しなければならない。
全員の所得が倍になり、最も貧しい人の生活も改善したとしても、富裕層の所得がそれ以上に増えれば格差は拡大する可能性がある。反対に、深刻な不況によって富裕層の所得が大きく減れば、社会全体が貧しくなりながら所得格差だけ縮小する場合もありうる。
したがって、格差縮小そのものを政策目的にすると奇妙な結論が生じることがある。
問うべきなのは、格差の大小だけではない。最低生活水準はどうなっているのか。社会移動は可能なのか。教育や医療にアクセスできるのか。富が政治的権力へ変換されていないか。成長の利益は誰に届いているのか。
一つの指標では答えられない問いである。
格差はいつ問題になるのか
格差を万能の悪として扱えば、「違いが存在する」という事実そのものを問題視することになる。しかし、反対に「努力や能力が違うのだから格差は当然だ」としてしまえば、制度や相続、交渉力、歴史的条件による不平等を見落とす。
格差が特に問題になるのは、少なくとも三つの条件が重なるときだろう。
第一に、本人が制御できない条件によって大きく左右されること。第二に、その格差が世代を越えて固定されること。第三に、経済的な格差が教育、健康、政治参加など別の領域の格差へ転換されることである。
現代ではさらに、デジタル技術やAIをめぐる新しい論点が加わっている。高度な技術を所有する企業と労働者のあいだで利益がどのように配分されるのか、AIによる生産性向上が賃金上昇につながるのか、それとも資本所得へ集中するのかは、まだ確定していない。
同じ技術革新でも、競争政策、税制、教育制度、労働市場制度によって分配結果は変わりうる。
格差は、単一の原因から生じる単一の現象ではない。ピケティが問う資産所有、センが問う実質的自由、ロールズが問う制度の正当性、ミラノヴィッチが問う世界規模の分配は、互いに関連しながらも別の問題である。
だからこそ「格差が拡大している」「格差を是正すべきだ」という言葉だけでは十分ではない。
本当に問うべきなのは、**何の格差が、どのような仕組みで生まれ、その差によって誰の選択可能性が失われているのか**である。格差という概念は、その問いを始めるためには有効だが、それ自体が答えではない。