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進歩は環境負荷と両立するか

進歩は環境負荷と両立するかをめぐる批評・深掘り記事。

「進歩」と「環境負荷」をどう測るか

経済成長や技術革新は、より豊かな生活を可能にしてきた。しかし、生産と消費が増えれば、資源採取、エネルギー利用、廃棄物、温室効果ガス排出も増える。ここから「人間社会の進歩は、環境負荷の増大を避けられないのではないか」という問いが生まれる。

この論争で難しいのは、「進歩」も「環境負荷」も単一の指標ではないことである。進歩をGDPの増加と考えるのか、寿命、教育、自由、健康、余暇などを含む生活水準の向上と考えるのかで議論は変わる。環境負荷についても、二酸化炭素排出量、土地利用、生物多様性、鉱物資源、水、大気汚染など、評価すべき対象は複数ある。

したがって争点は、「経済成長は環境に良いか悪いか」という単純な二択ではない。より正確には、**人間の福祉や経済活動を拡大しながら、物質・エネルギー利用と環境への悪影響を十分な速さで減らすことが可能か**という問題である。

この問いをめぐって、主として三つの立場がある。技術革新による「グリーン成長」を支持する立場、成長と環境負荷の切り離しには限界があるとする脱成長論、そしてGDP成長そのものより社会的・環境的な目標を直接管理すべきだとする中間的な立場である。

グリーン成長論――より豊かに、より少ない資源で

進歩と環境負荷は両立できると考える代表的な議論の一つが、技術革新による「デカップリング(切り離し)」である。

アンドリュー・マカフィーは『More from Less』で、先進国では経済が成長しても、一部の原材料利用や汚染が必ずしも増え続けているわけではないと論じた。情報技術、製造技術、物流、価格メカニズムなどによって、同じ価値をより少ない物質で生産できるようになったからである。

典型的な例はデジタル化だ。新聞、音楽、写真、地図、通信機器など、以前は多数の物理的製品を必要とした機能がスマートフォンなどに統合された。自動車や建築物も、同程度の性能をより少ない材料や燃料で実現できるようになってきた。

スティーブン・ピンカーも『Enlightenment Now』で、人間の進歩と環境保護を必ずしも対立するものとして捉えない。豊かな社会ほど、公害規制、自然保護、効率改善などに資源を投入する余裕を持ちうるという考え方である。過去に深刻だった都市の大気汚染や有害物質の一部が規制と技術によって改善してきた事実は、この見方を一定程度支持する。

この立場の核心は、経済成長を「物を大量に消費すること」と同一視しない点にある。GDPは最終的には市場で生まれる付加価値を測っているため、サービス、ソフトウェア、医療、教育などの比率が上がれば、理論上は物質消費をほとんど増やさず所得を増加させることも可能である。

再生可能エネルギー、原子力、電化、省エネルギー、リサイクル、精密農業などを組み合わせれば、生活水準を維持または向上させながら環境負荷を減らせる、というのがグリーン成長論の期待である。

脱成長論――効率化だけでは足りないのではないか

これに対して、ジェイソン・ヒッケルの『Less Is More』などに代表される脱成長論は、技術進歩への期待だけでは環境危機を解決できないと批判する。

重要な論点が「相対的デカップリング」と「絶対的デカップリング」の違いである。

GDP1単位を生産するために必要な資源や排出量が減ることは相対的デカップリングである。しかし経済全体がそれ以上の速度で拡大すれば、総資源利用量や総排出量は増えてしまう。

例えば、ある製品を作るために必要なエネルギーが20%減っても、生産量が50%増えれば、社会全体のエネルギー消費は減らない。このため重要なのは効率ではなく、**環境負荷の絶対量が十分な速度で減るかどうか**だと脱成長論者は主張する。

さらに「リバウンド効果」の問題もある。省エネルギーによって商品の利用コストが低下すると、人々がそれをより多く利用し、技術的な省資源効果の一部が相殺される可能性がある。

脱成長論が特に問題視するのは、エネルギーだけでなく物質利用全体である。電力が脱炭素化されても、鉱物資源、森林、水、土地、生態系への圧力が自動的になくなるわけではない。太陽光発電、風力発電、蓄電池、送電網などにも大量の物質が必要になる。

この観点から見ると、気候変動だけを改善して「環境と成長は両立した」と結論するのは早い。環境問題には複数の次元があり、一つの負荷を減らす過程で別の負荷が増える可能性もある。

「成長か脱成長か」という二択の問題

もっとも、脱成長論にも重要な批判がある。

第一に、世界全体を一律に「成長させない」政策には大きな分配上の問題がある。低所得国では、住宅、衛生設備、医療、電力、交通、教育などの拡充が依然として必要である。これらには物質とエネルギーが必要になる。

したがって、豊かな国の過剰消費を減らす議論と、貧しい国の生活水準向上を抑制する議論は区別しなければならない。脱成長論者自身も通常はこの違いを認め、主として高所得国の物質消費を問題にしている。

第二に、GDPを減らすだけでは環境問題は解決しない。不況になれば排出量が減る場合はあるが、それは失業や貧困を伴う可能性がある。環境政策として必要なのは経済規模を無差別に縮小することではなく、化石燃料、土地利用、資源採取など具体的な環境負荷を減らすことである、という反論が成立する。

第三に、未来の技術進歩には大きな不確実性がある。脱成長論が将来のデカップリング能力を過小評価している可能性がある一方、グリーン成長論が技術革新を過大評価している可能性もある。どちらも未来についての仮定を完全には避けられない。

「ドーナツ経済」が問い直すもの

ケイト・ラワースの『Doughnut Economics』は、この対立とは少し異なる方向から問題を組み替える。

ラワースは、GDPを政策の究極目標とする考え方そのものを問い直す。社会には、健康、教育、住居など人間が最低限満たすべき「社会的基盤」がある一方、気候変動や生態系破壊など超えてはならない「環境的上限」がある。その間に、人間が安全かつ公正に暮らせる領域を構想する。

この発想の利点は、「成長するべきか、縮小するべきか」という問いを絶対化しないことである。

低所得国では、社会的基盤を満たすため経済活動の拡大が必要な場合がある。一方、すでに豊かな社会では、GDPをさらに増やすことより、資源利用を減らしながら健康、余暇、公共サービスなどを改善する方が重要かもしれない。

この意味で、経済成長は目的ではなく結果になる。必要な環境基準と社会目標を設定した結果としてGDPが増えるなら増えてもよいし、増えなくても社会が改善するなら問題ではない、という立場である。

実証的には何が分かっているのか

この論争を難しくしている最大の理由は、「両立する」という言葉に必要な条件が非常に厳しいことにある。

一部の高所得国では、国内の温室効果ガス排出量が減少する一方で経済成長が続いた期間があり、少なくとも二酸化炭素排出について絶対的デカップリングが不可能だとは言えない。

しかし、そこから「経済成長とあらゆる環境負荷は世界規模で永続的に切り離せる」と結論することもできない。

第一に、輸入品の生産過程で生じた環境負荷をどの国に帰属させるかによって数字が変わる。

第二に、温室効果ガスを減らせても、鉱物採掘、土地利用、生物多様性など他の負荷が同時に減るとは限らない。

第三に、環境負荷が減少しているだけでは十分でない場合がある。気候変動では、排出量を単に前年より減らすだけでなく、危険を抑えるために必要とされる速度で減らす必要があるからだ。

したがって実証研究で問うべきなのは、デカップリングが「存在するか」だけではない。その規模、速度、持続期間、対象となる環境指標、世界全体への適用可能性まで検討する必要がある。

本当の対立は「技術か節制か」ではない

この論争はしばしば、技術楽観主義と反成長思想の対決として描かれる。しかし実際の政策では、両者が提案する手段には重なる部分も多い。

炭素価格、環境規制、再生可能エネルギー、公共交通、建物の省エネルギー化、製品寿命の延長、リサイクルなどは、成長を支持する立場からも脱成長を支持する立場からも採用できる。

違いは、それらを実施した後も経済全体の継続的拡大を前提とするかどうかにある。

グリーン成長論は、イノベーションと制度設計によって、経済成長率より速く環境原単位を改善できると期待する。脱成長論は、その速度には物理的・社会的限界があり、豊かな国では総需要そのものを抑える必要があると考える。

つまり対立の中心は「技術を使うか使わないか」ではない。**技術と制度だけで必要な絶対削減を達成できるのか、それとも消費や生産の総量にも上限を設けなければならないのか**という点にある。

未解決なのは「可能性」より「速度」

理論上、人間の福祉と物質消費は完全には同一ではない。知識、医療、ソフトウェア、文化、教育など、比較的小さな物質投入で大きな価値を生む活動は存在する。その意味では、「進歩すれば必ず環境破壊が増える」という強い主張は成立しにくい。

一方、「技術が進歩すれば環境問題は自然に解決する」という主張も根拠が弱い。効率化による改善が経済規模の拡大に打ち消される可能性があり、環境負荷には気候変動以外の側面もあるからである。

したがって現在の知見から最も慎重に言えるのは、**進歩と環境負荷の低下は部分的には両立可能だが、あらゆる環境負荷について、世界規模で、必要な速度で、長期的に両立できることが証明されたわけではない**ということだろう。

重要なのは、「成長を続けるべきか」という抽象的な争いだけではない。どの環境負荷を、どの程度まで、いつまでに減らす必要があるのか。その条件を満たしながら、人間の健康、安全、自由、生活水準をどこまで高められるのか。

進歩と環境の関係を評価するには、GDPという一つの数字にも、「地球に優しい」という曖昧な言葉にも還元しない視点が必要である。最終的に問われているのは成長そのものではなく、**より少ない環境負荷によって、より良い社会をつくれるか**なのである。

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