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人類史を考える最初の3冊

長期史の問い、説明の異なる軸、論争を順番にたどる読書ルート。

三冊を「答え」ではなく、三つの問いとして読む

人類史を考え始めるとき、最初から専門的な通史や考古学の研究書へ進む必要はない。むしろ有効なのは、射程の大きな本を何冊か読み、それぞれが「何を説明しようとしているのか」を比較することである。

ここでは、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』、ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』、スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』の順に読むことを提案したい。これは優劣をつけたランキングではない。三冊は同じ人類史を別の角度から説明しており、一冊目で生まれた疑問を二冊目が具体化し、三冊目がさらに別の方法で検証し直す関係にある。

大まかに言えば、『サピエンス全史』は「人類はなぜ巨大な社会を作れたのか」を問い、『銃・病原菌・鉄』は「なぜ地域ごとに文明発展の大きな差が生まれたのか」を問い、『暴力の人類史』は「文明化は人間を本当に良くしたのか」を問う。

三冊を通じて学ぶべきなのは、それぞれの結論以上に、巨大な歴史を説明するときに何を原因として選び、どのような証拠を使うのかという違いである。

まず『サピエンス全史』で、人類史を見る縮尺を変える

最初に『サピエンス全史』を置く理由は、人類史を国家や王朝の歴史から切り離して見る視点を得やすいからである。

学校で学ぶ歴史は、古代文明、帝国、宗教、戦争、革命といった出来事を年代順に追うことが多い。それに対してハラリは、ホモ・サピエンスという一つの動物種が、どのようにして地球規模の社会を形成するまでになったのかを長期的に考える。

そこで重要になるのが、認知革命、農業革命、貨幣、宗教、帝国、科学革命などを一つの大きな流れとして捉える方法である。

特に特徴的なのは、人間社会を支えるものとして「共同主観的」な秩序や共有された物語を重視する点だ。国家、貨幣、企業、法律などは物理的な自然物ではないが、多くの人がその制度や意味を共有することで社会的な力を持つ。

この視点を得ると、人類史を見る単位が変わる。

「ローマ帝国はなぜ滅びたのか」だけではなく、「そもそも数百万人の人間が同じ政治秩序の中で協力できるのはなぜか」という問いが見えてくるのである。

### ただし、説明が鮮やかすぎることに注意する

『サピエンス全史』の強みは、非常に長い歴史を少数の概念でつなげるところにある。しかし、それは同時に弱点でもある。

数万年に及ぶ歴史を一つの物語にすると、地域差や時代差、研究上の論争はどうしても圧縮される。農業革命が人間の幸福を低下させたという議論なども、重要な問題提起ではあるが、地域や時期によって生活条件は大きく異なるため、単純な一般化には注意が必要である。

ここで読者が持つべき疑問は、「説明として面白いこと」と「歴史的原因として十分に実証されていること」は同じなのか、という点だ。

その疑問を持ったまま次へ進むと、『銃・病原菌・鉄』の意味が見えてくる。

次に『銃・病原菌・鉄』で、「なぜ差が生まれたか」を掘り下げる

『サピエンス全史』を読むと、人間には大規模な協力を可能にする能力があり、その結果として国家や帝国が形成されたという大きな構図が見えてくる。

しかし、ここで新しい問題が発生する。

同じホモ・サピエンスであるにもかかわらず、なぜ16世紀にはスペイン人がアメリカ大陸へ進出し、その逆にはならなかったのだろうか。

この問いを正面から扱うのが『銃・病原菌・鉄』である。

ダイアモンドが重視するのは、人間集団の生得的な能力差ではなく、地理的・生態学的条件である。栽培化しやすい植物や家畜化可能な大型動物の分布、大陸の形状、技術や作物が伝播しやすい環境、家畜と人間の接触を通じて形成された感染症への免疫などが、社会発展の経路に長期的な違いを生んだと論じる。

ここでは、『サピエンス全史』で強調されていた「共有された物語」だけでは説明できない要素が前面に出てくる。

人間がいくら優れた制度や思想を作り出せるとしても、利用できる作物、動物、土地、交通条件が違えば、人口密度や国家形成の条件も変わる。

つまり二冊目では、一冊目の「人間はなぜ協力できるのか」という問いが、「その協力が、なぜ地域によって異なる規模と速度で発展したのか」という問いへ変わるのである。

### 地理はどこまで歴史を説明できるのか

しかし、『銃・病原菌・鉄』にも別の問題がある。

地理や生態環境を強く重視すると、政治制度、文化、偶然の出来事、個々の意思決定などの役割が小さく見えてしまう危険がある。

ダイアモンド自身の議論は単純な「地理がすべてを決める」という主張ではないが、長期的な環境条件を重視するため、地理的決定論ではないかという批判を受けてきた。

ここで重要なのは、その批判を「正しいか間違っているか」だけで処理しないことである。

むしろ、「数千年単位の歴史を説明するなら地理的条件は強力だが、数十年単位の政治的変化を説明するときにも同じ説明力を持つのか」と考えるべきだろう。

歴史では、説明する時間の長さによって重要な原因が変わる可能性があるからだ。

三冊目の『暴力の人類史』で、歴史を測るという問題に入る

ここまでの二冊では、人類社会がどのように拡大し、なぜ地域差が生まれたのかを考えてきた。

しかし、巨大な社会が形成されたこと自体は、人類が「進歩した」ことを意味しない。

国家が巨大になっても、戦争や殺人が増えているなら、それを文明の進歩と呼べるのだろうか。

そこで三冊目として『暴力の人類史』を読む意味がある。

ピンカーは、戦争、殺人、拷問、刑罰などさまざまな暴力について長期的なデータを集め、人類社会では人口に対する暴力の割合が長期的には低下してきたという議論を展開する。

ここで方法が大きく変わる。

ハラリが壮大な概念によって歴史を統合し、ダイアモンドが地理や生態条件を因果説明に使ったのに対し、ピンカーは可能な範囲で数量的な比較を行おうとする。

戦争の死者数だけを見るのではなく、人口に占める割合を比較する。現代の戦争が大きく報道されるからといって、過去より暴力的だとは限らないと考える。

この姿勢は、人類史を考えるうえで非常に重要である。

私たちは歴史について「昔は平和だった」「文明は人間を残酷にした」「現代社会はますます悪化している」といった物語を作りやすい。しかし、その物語が実際のデータと一致しているかどうかは別問題だからである。

### 数値化すれば客観的になるわけではない

一方で、『暴力の人類史』も方法上の難しさから自由ではない。

古代や先史時代の人口や死者数を正確に知ることは難しく、利用できる資料にも偏りがある。また、何を「暴力」として数えるのかによって結論の意味も変わる。

戦争や殺人が減ったとしても、植民地主義、強制労働、構造的な抑圧などをどのように評価するかという問題は残る。

したがって、この本から学ぶべきなのは「人類は確実に善くなった」という単純な結論ではない。

むしろ、「歴史上の変化を数量化すると何が見え、何が見えなくなるのか」という方法論上の問いである。

三冊を読むと、原因の候補が増えていく

この順番で読む最大の意味は、人類史について一つの万能な説明を持たなくて済むことである。

『サピエンス全史』では、共有された物語や制度が見えてくる。

『銃・病原菌・鉄』を読むと、その背後に地理、生態、農業、感染症といった物質的条件が見えてくる。

『暴力の人類史』まで進むと、さらに「その歴史観を何によって確かめるのか」という証拠の問題が入ってくる。

思想だけでも歴史は説明できない。環境だけでも説明できない。統計だけでも説明できない。

重要なのは、それぞれの説明がどの範囲では強く、どこから先では弱くなるのかを見ることである。

三冊を読み終えた時点で、「人類史とはこういうものだ」という答えを持っている必要はない。むしろ、以前より簡単に答えられなくなっているなら、この読書順はかなり成功している。

その後は、知りたい問いによって分岐する

三冊の先には一本道の「次に読むべき本」はない。

文明の繁栄と崩壊をさらに環境との関係から考えたいなら、ダイアモンドの『文明崩壊』へ進むことができる。『銃・病原菌・鉄』が文明間の格差の形成を扱うのに対し、『文明崩壊』では社会が環境問題や政治的選択にどう対応したかが中心になるため、環境決定論という批判について考える材料にもなる。

近代以降の経済発展や国家間格差を制度から考えたいなら、ダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』が有力な分岐になる。地理条件を重視する説明に対して、政治・経済制度をより強く重視するため、『銃・病原菌・鉄』との比較そのものが一つの論争になる。

一方、「人類は本当に進歩しているのか」という問いを深めたいなら、ハンス・ロスリングらの『FACTFULNESS』へ進む道もある。対象は人類史そのものではないが、世界の貧困、健康、教育などを統計によって考える方法を学べるため、『暴力の人類史』で始まった「印象とデータを区別する」という問題を広げられる。

そして、歴史を一つの巨大な物語として説明すること自体に疑問を感じたなら、ここから専門的な歴史研究へ進むべきである。地域史、経済史、考古学、人口史などに入ると、三冊のような大きな物語では省略されていた例外や地域差が大量に現れる。

最初の三冊は、世界史の答えではなく入口になる

人類史についての大著には、世界全体を一つの視点から理解できる魅力がある。しかし、その分だけ危険もある。

一冊の説明があまりに鮮やかだと、その説明こそ歴史の本質だと考えたくなるからだ。

だからこそ、『サピエンス全史』だけで終わらず、『銃・病原菌・鉄』へ進み、さらに『暴力の人類史』へ進む意味がある。

物語や制度を見る視点から、地理や環境を見る視点へ。そして最後に、それらの歴史観をどのような証拠で検証できるのかという問題へ移っていく。

この三冊から得られる最も重要なものは、人類史についての一つの結論ではない。

「何が人類史を動かしたのか」「どの説明がどこまで通用するのか」「その主張を支えている証拠は何か」と問い続ける読み方そのものである。

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