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book / Guns, Germs, and Steel

銃・病原菌・鉄

社会間の発展差を、地理・生態・技術伝播の長期条件から説明しようとする本。

なぜ「彼ら」ではなく「こちら」が征服したのか

『銃・病原菌・鉄』が投げかける問いは、文明の優劣そのものではない。より正確には、なぜ人類社会のあいだに、武器、技術、国家組織、感染症への耐性といった巨大な力の差が生まれ、その差が一部の社会による他の社会の征服へとつながったのか、という問いである。

ジャレド・ダイアモンドが退けようとするのは、その差を人種的・遺伝的な能力差によって説明する考え方だ。1997年に刊行された本書は、ユーラシアの諸社会が他地域に対して優位に立った長期的背景を、主として地理、生態環境、栽培化可能な植物、家畜化可能な動物、大陸の形状などから説明する。1998年にはピュリツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞した。

ここで重要なのは、本書を「ヨーロッパが強かった理由を説明する本」とだけ読むと、その企図を狭くしてしまうことだ。ダイアモンドがさらに遡って問うのは、そもそもなぜ銃や鉄を大量に持つ社会と、そうでない社会が生じたのか、という因果の連鎖である。

銃・病原菌・鉄は「原因」ではなく途中の結果である

題名だけを見ると、ヨーロッパ人の征服を可能にした三つの武器が中心に見える。しかし本書の構造では、銃、病原菌、鉄は最終原因ではない。

ダイアモンドの説明を大づかみにすると、食料生産が早く発達した地域では人口密度が上昇し、余剰食料によって専門職や支配組織を維持できるようになる。人口の多い定住社会では技術の蓄積や政治組織の形成が進みやすく、家畜との長い共存は感染症の歴史にも影響する。さらに、ユーラシア大陸は東西方向に長く、緯度が近い地域のあいだで作物、家畜、技術などが広がりやすかった、とされる。

つまり、

**地理・生態条件 → 食料生産 → 人口と社会組織 → 技術・病原菌・国家 → 征服能力**

という多段階の因果モデルが本書の骨格になっている。

この発想の強さは、「スペイン人がインカ帝国を征服できたのは銃を持っていたからだ」で説明を止めないところにある。「では、なぜスペイン側が銃を持っていたのか」と問い返し、その前の条件、そのさらに前の条件へと遡っていく。

歴史を事件の連続としてではなく、長期的な制約条件の蓄積として眺める。それが本書の最大の方法論的特徴である。

本書の価値は、人間集団の能力差を説明変数から外したことにある

『銃・病原菌・鉄』の意義は、地理ですべてを説明したことよりも、世界史上の巨大な格差を説明するときに「征服した側の人間のほうが優秀だった」という直観を不要にした点にある。

ヨーロッパの世界進出という結果だけを見れば、後世の人間は勝者の制度、宗教、科学、勤勉性、知性などに成功原因を求めたくなる。しかしダイアモンドは、勝者が持っていた能力そのものが、それ以前の環境条件から生じた可能性を追う。

この視点を採用すると、歴史上の勝者と敗者に道徳的・知的な序列をつける必要がなくなる。出版社による紹介でも、本書の中心的な特徴として、人種にもとづく歴史説明を退け、環境的要因から世界史の大きなパターンを説明することが強調されている。

ただし、この長所はそのまま本書の弱点にもなる。人間の能力差を過大評価しないために環境へ説明を移した結果、人間が作る制度、思想、権力関係、偶然の決断が相対的に薄く見えるからである。

「環境決定論」という批判はどこまで当たるのか

本書への代表的な批判の一つが、環境決定論ではないかという指摘である。ジェームズ・M・ブラウトらは、ダイアモンドのような説明が地理的条件に過大な因果的役割を与えると批判した。また、人類学や歴史学からは、巨大な時間幅を一つのモデルで説明することで、個々の社会が行った選択や地域ごとの差異が消えてしまうという批判も出ている。

この批判にはかなりの力がある。

たとえば、同程度の自然条件を持つ二つの社会が、異なる制度や政策を採用した結果、数世紀後に異なる姿になることは十分考えられる。地理が出発条件を与えるとしても、そこから一つの歴史だけが必然的に導かれるわけではない。

もっとも、ダイアモンド自身を「地理だけですべてが決まる」と主張する単純な決定論者として読むのも正確ではない。後のインタビューでは、北朝鮮と韓国の経済格差のような事例は地理ではなく政治・経済制度を見るべきだと明言している。したがって彼の議論は、あらゆる時代のあらゆる格差を地理だけで説明するというより、非常に長い時間幅で生じた大陸規模の初期条件を説明する理論として読むほうが妥当である。

問題は、「地理か人間か」の二択ではない。どの時間尺度なら地理の説明力が強まり、どの時間尺度から制度や政治的選択が重要になるのかである。

本書が粗くなるのは、文明の「途中」を説明するときである

ダイアモンドの議論は、数千年単位で見た大陸間の差を考えるときには強力である。一方、近代以降の国家間格差の説明になるほど競合する理論が増える。

代表的なのが制度を重視する議論だ。ダロン・アセモグル、サイモン・ジョンソン、ジェームズ・A・ロビンソンらは、植民地化の過程で形成された制度の違いが、その後の経済発展に長期的な影響を及ぼしたと論じた。さらに、1500年前後に比較的繁栄していた植民地域の一部が後世には相対的に貧しくなる「逆転」を、固定的な地理条件だけでは説明しにくい証拠として提示している。

これは『銃・病原菌・鉄』を単純に否定する議論ではない。

ダイアモンドが得意なのは、「なぜユーラシアの一部が他大陸に先んじる条件を持ったのか」という非常に長期的な問いである。それに対し制度論が強いのは、「似た条件を持つ社会が、なぜ近代以降に大きく分岐したのか」という、より短い時間幅の問いである。

両者を競わせるなら、どちらが正しいかではなく、どの段階の原因を説明しているかを区別したほうがよい。

「ユーラシア」という巨大な単位も疑う必要がある

本書を読むうえでもう一つ注意したいのは、分析単位の大きさである。

「ユーラシアは東西に長い」「ユーラシアには家畜化に適した大型哺乳類が多かった」という説明は、大陸間比較としては有効でも、その内部の多様性を隠す。メソポタミア、中国、インド、中央アジア、西ヨーロッパは同じ社会ではない。技術がある地域で生まれ、それが別の地域へ伝わり、さらに別の政治勢力によって軍事的に利用されることもある。

したがって「ユーラシアが発明した」「ヨーロッパが発達した」という文章を読むたびに、実際の主体は誰なのかと問い直したほうがよい。

大きな歴史を書くためには抽象化が必要である。しかし抽象化とは、現実の一部を意図的に捨てることである。本書の説得力は大胆な単純化によって生まれており、その単純化によって見えなくなったものまで含めて読む必要がある。

出版後、本書は「答え」よりも論争の出発点になった

『銃・病原菌・鉄』は1998年のピュリツァー賞受賞後も広く読まれ、2005年にはPBSによってテレビシリーズ化された。出版社は現在もピュリツァー賞受賞作かつベストセラーとして位置づけている。

しかし、その影響力の大きさゆえに批判も蓄積した。今日この本を読む価値は、世界史を一冊で説明する完成理論として受け入れることにはない。むしろ、「地理は歴史をどこまで説明できるのか」という問題を極端なスケールで提示した本として読むところにある。

ダイアモンド自身も後に『文明崩壊』で、環境条件だけでなく社会が危機にどう対応するかという問題をより前面に出した。一方、制度の形成を重視する『国家はなぜ衰退するのか』などを続けて読むと、『銃・病原菌・鉄』で背景に退いていた政治制度や権力の問題が見えやすくなる。

この意味で、本書は後続の本によって「古くなった」というより、他の説明変数をぶつけることで初めて輪郭がはっきりする本である。

再読するときは「何が説明されていないか」を探したい

初読では、作物、家畜、感染症、人口、技術、大陸軸が連鎖して世界史を動かす壮大さに目を奪われやすい。しかし再読では、逆の方向から読むと面白い。

ある歴史的結果について、地理条件を知れば本当に十分に予測できただろうか。

同じような環境条件でも異なる制度が成立するのはなぜか。

人間の選択や偶然は、このモデルのどこに入り込むのか。

食料生産の早期開始という「先行者利益」は、いつまで持続するのか。

そして最も重要なのは、ある説明が遠い過去まで遡れることと、その説明が現在の格差を十分に説明できることは同じなのか、という問いである。

『銃・病原菌・鉄』の価値は、読者に世界史の最終回答を与えることではない。それまで当然視していた説明を一段深い原因へ押し戻すことにある。そして一度その読み方を身につければ、今度はダイアモンド自身に対して同じ問いを返せる。

**その原因を生んだ、さらに前の原因は何か。逆に、その原因だけでは説明できないものは何か。**

本書は、その問いを繰り返すための巨大な仮説として読むと、最も生産的である。

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