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文明

長期史を語る際に用いられるが、単線的な発展段階としては扱えない概念。

「文明」は何を指す言葉なのか

「文明」という語は、歴史を説明するとき便利である一方、極めて曖昧でもある。都市、国家、文字、科学技術、経済制度、宗教、生活様式など、互いに異なる現象が同じ言葉でまとめられやすいからだ。

たとえば「メソポタミア文明」という場合、文明は一定の地域と時代に存在した複雑な社会を指している。しかし「文明が発達した」という場合には、技術や制度が高度化する過程が想定されることが多い。「西洋文明とイスラム文明」という表現では、文明はさらに広く、宗教、歴史、価値観を共有するとみなされた巨大な文化圏を意味する。

したがって、文明という語に一つの定義を与え、その定義だけですべての歴史を説明することは難しい。むしろ重要なのは、ある著者が文明という語によって何を区切り、何を比較し、どのような因果関係を示そうとしているのかを見ることである。

文明を「複雑な大規模社会」として見る

文明について考える一つの方法は、小規模な共同体から都市や国家を持つ大規模社会への変化として捉えることである。

ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』は、その代表的な例として読める。ダイアモンドの中心的な問いは、なぜ世界の異なる地域で富、技術、政治組織、軍事力に大きな差が生まれたのか、というものである。

彼の説明では、農耕に適した動植物の存在や、大陸の地理的条件などが重要になる。食料生産が安定すれば人口密度を高めることができ、専門的な職業、政治組織、技術開発などが成立しやすくなる。さらに人口の集中と家畜との接触は感染症の歴史にも影響する。こうして社会内部の制度と技術だけではなく、その成立条件まで遡って歴史的不均衡を説明しようとする。

この場合、文明は明確に定義された単一概念というより、人口集中、国家形成、技術、文字、軍事力などが組み合わされた複雑な社会状態として現れる。

この見方の利点は、「ある民族が優秀だったから発展した」という説明を避け、より長期的な条件を検討できることにある。一方で、地理や環境を重視しすぎれば、政治的判断、制度設計、偶然、文化的革新などの役割が小さく見える危険もある。

文明形成を説明することと、文明の歴史をすべて説明することは同じではない。

ハラリにとって重要なのは「大規模協力」である

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』では、文明という言葉そのもの以上に、多数の人間がどのように協力できるようになったのかという問題が重要になる。

ハラリは国家、貨幣、宗教、企業などについて、人間が共有する物語や制度が大規模な協力を可能にすると論じる。血縁や直接的な知人関係を超えて何百万人もの人間が一つの社会を形成できるのは、法律、国家、貨幣、神、会社などについて共通の認識を持つからだ、という見方である。

ここで文明は、単に都市や技術を持った社会ではない。見知らぬ人間同士を結びつける巨大な秩序でもある。

この視点から考えると、紙幣は単なる紙ではない。人々が価値を認める制度の内部で機能する。国家も、物理的な対象だけで構成されるわけではなく、法律、官僚制度、象徴、正統性への信頼によって成立している。

ただし、こうした説明を「社会はすべて物語にすぎない」と理解すると単純化しすぎる。国家には軍隊や徴税能力があり、企業には資産や契約があり、貨幣制度には中央銀行や金融機関がある。共有された認識は重要だが、それだけで制度が動いているわけではない。

「共同幻想」や「物語」という言葉も、文明と同様に万能の説明にしてはならない。

文明を「行動様式の変化」として見る

ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』では、文明の意味がさらに異なる。

彼が注目したのは、国家や都市が成立することだけではなく、人々の行動、感情、身体の扱い方、暴力への態度などが長期的にどのように変化したかである。

食事の作法、排泄、性的行動、攻撃性などに関する規範が変化し、人間が外部から強制されるだけでなく、自分自身の行動をより細かく統制するようになる。その背景には、国家による暴力の集中や社会的相互依存の拡大があるとエリアスは考えた。

この意味での文明化は、技術進歩とは別物である。

高速鉄道やコンピューターを持っているから、その社会の人間が「より文明化している」と単純に言えるわけではない。エリアスが問題にしたのは、社会構造の変化と自己抑制の形成との関係だった。

ただし、「文明化」という言葉には価値判断が入り込みやすい。近代ヨーロッパの行動様式を文明の完成形とみなせば、他文化を未開と位置づけた植民地主義的な序列と接近してしまう。エリアスの分析を読む場合にも、「文明化」という記述概念と、「文明的であることは優れている」という評価を区別する必要がある。

文明を巨大な文化圏として捉える

サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』では、文明は別の規模で使われる。

ここで文明とは、おおむね西洋、イスラム、中華などの大きな文化的まとまりを意味する。冷戦後の国際政治では、資本主義対共産主義というイデオロギー対立よりも、歴史的・宗教的・文化的な帰属の違いが重要になるというのが彼の議論だった。

この用法では、一つの文明に多数の国家が含まれる。

しかし問題は、その巨大な単位が本当に一つの主体のように行動するのかという点にある。同じ宗教や文化的伝統を共有していても、国家間には安全保障、経済、領土、体制などをめぐる対立が存在する。同じ「西洋」に分類される国々も常に同じ利益を持つわけではない。

文明という枠組みを使えば、長期的な文化差を見やすくなる反面、国家内部の多様性や国家間の利害対立が見えにくくなる。

分類が説明に変わってしまう危険があるのである。

「文明の発展」は一直線なのか

文明という概念には、しばしば暗黙の時間軸が含まれる。

狩猟採集社会から農耕社会へ、村落から都市へ、都市から国家へ、国家から帝国へという順序を想像すると、歴史は単純な発展段階のように見える。

しかし、この図式は現在では慎重に扱う必要がある。

デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』は、人類社会が単純に小規模で平等な社会から農耕、階層化、国家へと一本道で移行したという説明を批判する。考古学や人類学の研究からは、農耕を行いながら強固な階層社会を形成しない例や、季節によって異なる政治形態を取ったと解釈される社会など、単線的なモデルに収まりにくい事例が論じられてきた。

もちろん、この本の個々の歴史解釈については研究者の間で議論がある。しかし少なくとも、「農耕を始めれば必然的に国家が生まれる」といった単純な段階論を疑う視点は重要である。

文明はゴールではない。

社会は複雑になることもあれば、分裂することもある。中央集権化することもあれば、分権化することもある。都市が発達した後に人口が減少することもある。

歴史を一本の階段として描けば、こうした往復運動が消えてしまう。

文明と野蛮という対立

文明という語を理解するには、その反対側に置かれてきた言葉にも注意しなければならない。

文明は長い間、「野蛮」「未開」と対比されてきた。

この区別は単なる学術分類ではなく、政治的意味を持つことがある。ある社会を未開と呼べば、その社会の制度や慣習を劣ったものとして扱いやすくなる。近代の帝国主義では、支配や介入を「文明化」として正当化する論理が用いられたこともある。

だからといって、すべての社会制度を等価と考える必要はない。奴隷制、暴力、差別、政治参加、人権などについて比較し評価することは可能である。

重要なのは、その評価を「文明か野蛮か」という一語に集約しないことである。

ある社会が高度な数学を持ちながら強い身分制度を持つこともある。高い技術力を持ちながら政治的自由が制限される場合もある。文化的寛容さと軍事的暴力が同時に存在することもある。

文明という尺度を一本化すると、こうした複数の次元が消えてしまう。

文明はなぜ滅びるのか

文明論では、「なぜ文明が成立したか」と同じくらい「なぜ衰退するのか」が繰り返し問われてきた。

しかし、ここでも単一原因を求める誘惑には注意が必要である。

環境悪化、戦争、疫病、政治制度、人口変動、経済的不平等、交易構造の変化などは、いずれも特定の社会の変動に関係しうる。だが「文明は環境破壊によって滅びる」「不平等によって崩壊する」と一般化すれば、個々の歴史の違いを見失う。

さらに「文明の崩壊」という表現自体が観察する尺度によって変わる。

王朝や国家が消滅しても、そこに暮らしていた人間が消えるとは限らない。政治的中心が失われても、言語、宗教、技術、農業、生産活動が継続する場合がある。支配者から見れば崩壊でも、地域社会から見れば政治秩序の再編にすぎないこともある。

文明を一人の人間のように誕生・成長・老衰・死亡する存在として描く比喩は分かりやすいが、それが歴史的因果関係そのものだとは限らない。

現代社会を「一つの文明」と呼べるのか

現代では文明という概念に新しい問題が生じている。

インターネット、金融市場、国際貿易、科学、サプライチェーン、感染症、気候変動などは国境や文化圏を越えて結びついている。ニューヨーク、東京、上海、ドバイの生活は文化的には異なっていても、同じ技術基盤や金融制度、エネルギー網に依存している。

この状態を見れば、人類が一つの世界文明を形成しつつあるとも考えられる。

一方で、宗教、政治制度、歴史認識、家族観、言語、国家への帰属意識などには大きな差が残っている。「世界文明」が成立したと言い切るのも早い。

むしろ現代の特徴は、複数の文明が完全に分離して存在するのでも、一つの文明に統合されたのでもなく、異なる文化や政治共同体が同じ技術・経済システムの内部で強く依存し合っていることなのかもしれない。

文明という言葉をどう読むか

文明という概念そのものを捨てる必要はない。

大規模社会の成立を論じるなら有用であり、異なる歴史圏を比較する場合にも役立つ。長期的な制度変化や行動様式の変化を考える際にも、一つの視点を与えてくれる。

しかし、「文明が発展したから」「文明が衰退したから」「文明が違うから」という説明だけでは、ほとんど何も説明したことにならない。

何が変化したのか。人口なのか、政治制度なのか、技術なのか、価値観なのか。原因として何を想定しているのか。その関係は史料やデータによってどこまで確かめられるのか。他の原因では説明できないのか。

『銃・病原菌・鉄』は文明形成の環境条件を問い、『サピエンス全史』は大規模協力を可能にする制度や共有認識に注目し、『文明化の過程』は社会構造と自己統制の長期変化を分析し、『文明の衝突』は巨大な文化圏を国際政治の単位として扱う。そして『万物の黎明』は、そもそも社会発展を一本の文明化過程として描く発想に疑問を投げかける。

同じ「文明」を論じているように見えても、実際には違う問いを扱っているのである。

文明という言葉の価値は、人類史を一言で説明できることにあるのではない。むしろ、その言葉が何をまとめ、何を切り捨てているのかを問い直すところから、歴史を読む作業が始まる。

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