経済を動かすのは市場か、制度か
経済を考えるとき、私たちはしばしば成長率、物価、金利、生産性、所得といった数字に目を向ける。しかし、それらの背後では、所有権、契約、企業、政府、通貨、社会保障、教育制度といった「制度」が、人々の行動可能性そのものを形づくっている。
市場と制度は対立物ではない。市場それ自体が、何を所有できるのか、契約違反をどう処理するのか、企業にどこまで責任を負わせるのかという制度なしには安定して存在できない。問題は「市場か政府か」という二択ではなく、**どのような制度が、どのような市場を生み、その利益と損失を誰に配分するのか**にある。
この問いをめぐって、制度派経済学、政治経済学、自由主義、市場社会批判、開発経済学などは異なる答えを提示してきた。それぞれが注目する制度の側面を比較すると、経済制度について考える際の重要な争点が見えてくる。
制度はなぜ重要なのか
ダグラス・ノースは制度を、人間同士の相互作用を形づくる「ゲームのルール」として捉えた。法律や憲法のような公式の規則だけでなく、慣習や社会規範のような非公式の制約も含まれる。
この見方の重要性は、同じ技術や資源を持つ社会でも、制度が異なれば経済成果が変わりうると考える点にある。
たとえば、投資によって得た利益を将来も保持できるという期待がなければ、企業や個人は長期投資をためらうだろう。契約がほとんど履行されない社会では、知らない相手との取引には大きな費用がかかる。逆に、所有権や契約が一定程度予測可能なら、取引相手の範囲を広げやすい。
ここでは経済発展の問題が、単なる資本蓄積から「人々がどのような期待を持てる制度になっているか」という問題へ移る。
しかし、制度を安定性だけで評価することはできない。奴隷制のように、長期間存続しながら重大な搾取を伴った制度も存在する。制度が持続することと、それが社会全体に望ましいことは別の問題である。
成長を生む制度と権力を守る制度
ダロン・アセモグルとジェイムズ・ロビンソンは『国家はなぜ衰退するのか』などで、政治制度と経済制度の関係を重視する。
彼らの議論でよく知られるのが、「包摂的な制度」と「収奪的な制度」という区別である。
包摂的な経済制度では、多くの人が経済活動に参加し、能力を発揮し、財産を保持する余地が比較的大きい。これに対し収奪的な制度では、権力を持つ集団が他者から所得や資源を吸い上げる構造が強い。そして政治権力が少数に集中している場合、その集団は自分たちの利益を守る制度を維持しようとする。
この説明の強みは、非効率な制度がなぜ存続するのかを説明できることにある。
社会全体にとって生産性を高める改革であっても、既存の支配層の地位を脅かすなら阻止される可能性がある。つまり、「もっと効率的な制度があるのに、なぜ採用されないのか」という問題を、知識不足ではなく権力関係から説明するのである。
ただし、包摂的か収奪的かという分類だけで歴史を説明しようとすれば、制度形成に影響する地理、戦争、国際関係、文化、技術などの要因を過小評価する危険がある。制度論の重要性は、制度だけですべてを説明できることではなく、経済成果の背後に政治的選択が存在することを可視化した点にある。
良い制度は中央から設計できるのか
制度が重要だとしても、次の問題が生じる。
**望ましい制度を政府が設計すればよいのだろうか。**
ここで重要になるのがフリードリヒ・ハイエクの議論である。ハイエクは、市場の価格体系には多数の個人が持つ分散した知識を調整する機能があると考えた。
ある商品の価格が上昇したとき、利用者は、その背景にある鉱山事故、輸送障害、需要増加などを詳しく知らなくても、使用量を減らしたり代替品を探したりする。価格は、中央政府がすべての事情を把握しなくても行動を調整する信号として働く。
この議論は、制度改革に対する重要な警告を含む。
制度設計者が社会の情報を完全に把握できるとは限らない。善意で作られた制度でも、現場の知識を無視すれば予想外の結果を生むことがある。
しかし、このことから市場に任せれば自動的に最善の制度になるとは導けない。市場参加者自身が独占を形成したり、情報格差を利用したり、環境負荷を第三者に押しつけたりする場合もある。市場が情報を調整する能力と、市場によって生じる結果の公平性は別の論点である。
国家か市場かという二択を超える
エリノア・オストロムの研究は、この二択そのものを疑わせる。
森林、漁場、灌漑設備などの共有資源をめぐっては、従来、個人所有にするか政府が管理しなければ乱用されるという説明が有力だった。しかしオストロムは、地域社会が独自のルールを形成し、共有資源を持続的に管理している事例を研究した。
重要なのは、「共同体なら成功する」という単純な結論ではない。
利用者の範囲がある程度明確であること、ルール形成に当事者が参加できること、監視や段階的制裁の仕組みがあることなど、共同管理にも一定の条件が必要だとされた。
この視点を導入すると、制度を「政府」「市場」という二種類に分類する発想そのものが粗すぎることがわかる。
企業、自治体、協同組合、業界団体、地域共同体、家族、オンラインコミュニティなど、現実の経済は多数の制度が重なって動いている。問うべきなのは、国家と市場のどちらが優れているかではなく、対象となる問題に対してどの統治構造が機能するかである。
市場を社会から切り離せるのか
カール・ポランニーはさらに根本的な問題を提起した。
『大転換』で論じられた中心的な問題の一つは、市場経済が社会から独立した自然な仕組みなのか、それとも政治的・社会的制度によって形成されたものなのかという点である。
土地、労働、貨幣まで市場で取引される社会では、人々の生活条件そのものが市場変動にさらされる。市場化が進むほど、それに対する社会的保護を求める動きも強まるというのがポランニーの重要な着眼である。
この議論は、市場を単なる交換装置ではなく社会制度として見ることを要求する。
最低賃金、失業保険、労働時間規制、金融規制といった制度は、市場に対する外部からの介入であると同時に、特定の形の市場社会を成立させる構成要素でもある。
もっとも、ポランニーの歴史解釈については研究上さまざまな議論があり、近代以前の社会に市場がどの程度存在していたかなどを単純化することはできない。それでも、「市場そのものが制度的に作られている」という問題提起には大きな射程がある。
成長する制度なら成功なのか
制度論にはもう一つの難問がある。
仮にある制度が高い経済成長を実現したとして、それだけで良い制度だと言えるのだろうか。
トマ・ピケティの研究が示してきたのは、所得や資産の分配が市場だけで決まるわけではなく、税制、相続制度、教育制度、企業統治などによって大きく左右されるという点である。
同じ市場経済でも、累進課税の程度、大学教育へのアクセス、労働者の交渉力、資産所有の集中度によって、成長の果実が誰に渡るかは変化する。
アマルティア・センの能力アプローチを加えれば、評価対象はさらに広がる。所得が増えたかだけでなく、人々が健康に生き、教育を受け、社会に参加し、自ら価値があると考える人生を選択できる実質的な自由を持っているかが重要になる。
すると制度の評価には少なくとも三つの軸が現れる。
一つは生産性である。どれだけ価値を生み出せるか。
二つ目は分配である。その利益と負担を誰が受け取るか。
三つ目は自由と権力である。誰が制度を決め、誰に選択肢が与えられているか。
これらは必ずしも一致しない。
制度は原因なのか、それとも結果なのか
制度論で特に慎重でなければならないのが因果関係である。
豊かな国に優れた制度が存在するとしても、「優れた制度だから豊かになった」のか、「豊かになったから制度を改善できた」のかは簡単には判別できない。
さらに、教育水準、天然資源、地理条件、疾病環境、国際貿易、植民地支配、戦争、技術変化などが、制度と経済成果の双方に影響している可能性もある。
このため制度を扱う研究では、歴史的比較や自然実験に近い状況を利用して因果関係を推定する試みが行われてきた。しかし長期的な歴史現象では条件を完全に揃えることはできず、個々の研究の解釈をめぐる論争も続いている。
制度が重要だという命題と、「ある特定の制度が経済成長の主要因である」という命題は区別しなければならない。
経済制度をどう読むべきか
制度を見るとき、最も危険なのは、成功した社会の制度を抽出して他国へ移植すれば同じ結果が得られると考えることである。
制度は単独では機能しない。
所有権制度は司法制度と関係し、司法制度は政治権力と関係し、企業制度は金融制度や教育制度と関係している。公式の法律が同じでも、行政能力や社会規範が異なれば実際の運用は変わる。
だから制度について問うときには、「自由市場か規制か」「大きな政府か小さな政府か」という抽象的な対立だけでは不十分である。
誰がルールを作るのか。
誰がそのルールを変更できるのか。
違反を誰が監視するのか。
利益を得るのは誰か。
失敗したときの損失を負うのは誰か。
制度に参加できない人は誰か。
こうした問いを重ねることで初めて、制度の実際の性格が見えてくる。
経済とは、希少な資源を市場で交換する仕組みだけではない。それは、人々がどの行動を選択でき、どの利益を保持でき、どのリスクを負わされるかを決める制度の集合でもある。
ノースが示したルールの重要性、アセモグルとロビンソンが強調した権力、ハイエクが警告した知識の分散、オストロムが示した多様な統治、ポランニーが問うた市場と社会の関係、ピケティやセンが広げた分配と自由の問題は、互いを排除するというより、経済制度の異なる断面を照らしている。
したがって「良い経済制度とは何か」という問いに、一つの普遍的な答えがあるとは限らない。
むしろ重要なのは、制度を所与の背景として扱わず、**誰がどのようなルールの下で経済活動を行い、そのルールによって何が可能になり、何が排除されているのか**を問い続けることである。経済を制度から読むとは、数字の背後にあるルールと権力を読むことなのである。