リスクとは何か
「リスク」は、日常語では「危険」とほぼ同じ意味で使われる。しかし、経済学、統計学、心理学、金融論では、もう少し限定された意味を持つ。典型的には、**将来に複数の結果があり、その発生可能性や損失の大きさを何らかの形で評価できる状態**を指す。
ただし、この定義だけでも問題は残る。確率が分かっている場合だけをリスクと呼ぶのか。確率を推定できれば十分なのか。利益が生じる可能性もリスクに含めるのか。人間が感じる危険と統計上の危険が食い違うとき、どちらを重視すべきなのか。
リスクという概念は、単に「未来は不確かである」と述べる言葉ではない。それは、不確かな未来をどこまで数値化できるのか、その数値を意思決定にどう利用できるのかという問いと結びついている。
ナイト――リスクと不確実性を分ける
リスク論で古典的な区別を示したのが、フランク・ナイトの『Risk, Uncertainty and Profit』である。ナイトの議論では、将来が分からないという状態をすべて同じものとして扱わない。
代表的な読み方では、確率的に扱える不確実性を「リスク」、確率そのものを十分に把握できない状況を「不確実性」と区別する。
たとえば、サイコロを振ったときに1が出る確率はモデル化しやすい。大量の契約を扱う保険会社も、一定の条件下では過去の統計から事故率を推定できる。こうした状況では、個別の結果は予測できなくても、集団としての分布を扱える。
これに対して、新しい産業が十年後にどう変化するか、未知の技術が社会をどう変えるかといった問題では、そもそも可能な結果を完全に列挙することさえ難しい。
この区別の重要性は、「数字があること」と「リスクを正確に把握していること」を同一視しない点にある。
将来売上を「成長率10%、成功確率60%」と設定すれば計算はできる。しかし、その60%が十分な観測から推定されたものなのか、担当者の主観を数字に置き換えただけなのかによって意味は大きく異なる。
リスク計算は、不確実性そのものを消してくれるわけではない。
カーネマンとトヴェルスキー――人間は確率通りには判断しない
リスクが数値化できたとしても、人間がその数字を合理的に利用するとは限らない。
ダニエル・カーネマンが『Thinking, Fast and Slow』で紹介した、エイモス・トヴェルスキーとの研究では、リスク下の意思決定が単純な期待値計算から系統的に外れることが論じられている。その代表がプロスペクト理論である。
人は最終的な資産額だけを見るのではなく、現在の状態などを基準とした「利得」と「損失」として結果を評価する。また、同程度の変化であれば、利益を得る喜びより損失の心理的影響が大きくなる傾向が示される。
さらに、確率に対する反応も単純ではない。低い確率を過大に意識したり、高い確率を確実なものと同じようには扱わなかったりする。
ここで、リスクには二つの層が生まれる。
一つは、事故率や価格変動率のような**統計的リスク**である。もう一つは、それを人間がどう受け止めるかという**認知されたリスク**である。
宝くじと保険が同時に成立することは、その違いを考える分かりやすい例である。人は低確率の大きな利益にお金を払い、同時に低確率の大きな損失を避けるためにもお金を払う。
期待値だけを見れば説明しにくい行動も、リスクに対する心理的評価を考えれば理解しやすくなる。
ギガレンツァー――リスクを理解する能力
ゲルト・ギガレンツァーは『Risk Savvy』などで、リスクを正しく扱うには専門家が計算するだけでなく、市民自身が確率や統計を理解できることが重要だと論じている。
ここで問題になるのが、同じ統計でも表現方法によって印象が変わることである。
たとえば「リスクが50%増加した」という説明だけでは、実際の危険の大きさは分からない。発生確率が1万人に1人から1万人に1.5人へ増えた場合と、10人に1人から約7人に1人へ増えた場合では、意思決定上の意味が違う。
相対リスクだけでなく、絶対リスクや母集団の大きさを見る必要がある。
医療、災害、犯罪、投資などでは、割合だけが強調されるとリスク認識を歪める可能性がある。したがって、リスク・リテラシーとは「数字に従う能力」ではない。数字が何を意味し、何を意味しないかを判断する能力である。
この点では、リスクの数値化は合理性を高める手段である一方、表現次第で説得の道具にもなりうる。
タレブ――分布そのものを疑う
ナシーム・ニコラス・タレブは『The Black Swan』などで、リスク管理に対して別方向から批判を加えた。
問題となるのは、過去のデータから推定した確率分布が未来にも通用すると考えることそのものである。
身長のように極端な値の影響が比較的小さい現象もあれば、企業規模、資産価格、戦争被害などのように、少数の極端な出来事が全体を大きく左右する現象もある。後者では、平常時の観測から得た平均や分散だけで将来を評価すると、重大なリスクを過小評価する可能性がある。
これは「予測はすべて無意味だ」という主張とは異なる。
保険数理や品質管理のように、十分なデータと比較的安定した生成過程を持つ領域では確率モデルは有効である。一方、金融危機、技術革新、地政学的大変動のように、構造そのものが変化しうる領域では、過去の分布をそのまま延長することには注意が必要になる。
ナイトが「確率化できない不確実性」を問題にしたとすれば、タレブの議論はさらに、「確率化したと思っているものが本当にその分布に従うのか」と問い返していると整理できる。
平均だけではリスクを表せない
リスクを扱う際に最も単純な指標は期待値である。
50%の確率で100万円を得て、50%の確率で何も得ない選択肢なら、期待値は50万円になる。しかし期待値が同じでも、結果の分布はまったく異なりうる。
必ず50万円を受け取れる選択肢と、半分の確率で100万円、半分の確率でゼロになる選択肢は、期待値だけなら同じである。
さらに、1%の確率で破産する投資と、頻繁に小さな損失が出るだけの投資を、平均収益率だけで比較することもできない。
そこで金融では分散や標準偏差、下方リスクなど複数の指標が使われる。しかし、どの指標にも前提がある。
価格変動が大きいことをリスクと定義すれば、上昇方向の変動まで危険として数えることになる。最大損失を重視すれば極端な事象には敏感になるが、その発生確率をどう推定するかという問題が残る。
したがって「リスクはいくつか」という問いには、測定方法を指定しなければ答えられない場合が多い。
客観的リスクと社会的リスク
リスクは統計だけでは完結しない。
ある事故によって年間何人が死亡するかを推計できたとしても、それだけで社会がどの危険を受け入れるべきかは決まらない。
本人が自発的に選択する危険なのか、第三者から押し付けられる危険なのか。利益を得る人と損失を負う人は同じなのか。被害は回復可能なのか。子どもや将来世代に影響するのか。
こうした条件によって、同じ死亡確率でも社会的評価は変わりうる。
この意味で、「科学的にリスクは小さい」という説明だけでは政策論争を終わらせられない。科学が推計できるのは主として発生可能性や被害規模であり、どの程度のリスクなら許容できるかという判断には価値判断が含まれる。
逆に、社会的な不安が大きいという理由だけで、統計的危険まで大きいと結論することもできない。
リスク評価とリスク受容は区別する必要がある。
現代社会では「モデルのリスク」が増えている
AI、金融、医療、気候予測などでは、リスクを判断するためにモデルが使われる。しかしここでは、対象のリスクとは別に、**モデルが間違っているリスク**が生じる。
信用スコアが貸し倒れ確率を予測し、医療モデルが疾病確率を推定し、金融モデルが損失確率を計算する。数字として表示されるため客観的に見えるが、その結果はデータ、変数選択、対象期間、モデル構造に依存している。
過去のデータに存在しなかった変化が起きれば、精度が急激に悪化することもある。
さらに、自動化された判断では「確率70%」のような出力が、そのまま意思決定へ変換されやすい。しかし、本来必要なのは、その70%がどの集団について推定されたのか、誤差はどの程度か、環境変化に耐えられるのかを確認することである。
数字の精密さと知識の確かさは同じではない。
リスクという概念の限界
リスクという考え方の最大の価値は、漠然とした恐怖を分解できることにある。
「危険だ」と言う代わりに、何が起こるのか、どれほどの確率なのか、損失はいくらか、誰が負担するのかを問うことができる。これによって、感情だけに依存しない比較が可能になる。
しかし、その長所を拡張しすぎると、逆の問題が生じる。
確率が推定できない未来まで無理に数値化し、単一の指標へ圧縮すると、本来存在する不確実性が見えなくなるからである。
ナイトの区別は、リスクの外側に不確実性があることを示す。カーネマンとトヴェルスキーの研究は、人間が与えられた確率を機械的には処理しないことを示す。ギガレンツァーは、その確率の伝え方自体を問題にする。タレブは、確率分布を知っているという前提そのものを疑う。
これらを合わせると、リスクについて重要なのは、数字を一つ得ることではない。
**何をリスクと定義したのか。その確率はどこから来たのか。分布は安定しているのか。極端な結果を含んでいるのか。そして、その数字を誰がどのような目的で使うのか。**
リスクとは未来を完全に計算可能にする概念ではない。むしろ、計算できる部分と計算できない部分の境界を見極めるための概念として用いるとき、最も有効なのである。